「あきらめる(諦める)」という言葉、
大体は何かを断念するとか、終わりを覚悟する、という意味で使われています。
私もそう思っていました。
反対の言葉は「執着」かな。
あきらめきれない状態は執着を生み出します。
追いかけて追いかけて、それはとても苦しい。
だから「あきらめる」ということのすっきり感もなんとなくわかっていて、それは歯を食いしばって我慢するとか、苦しんで手放すとか、そういう感じではないのですよね。
「あきらめる」はもともと仏教用語だそうです。
「明きらむ」、要するに「明らかにする」という意味で、真理を観察して明らかに観るという事。
仏教での「諦」という字は「真理を悟る」という意味。「明きらむ」という事。
般若心経最後の一節、「羯諦羯諦 波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶(ぎゃーてーぎゃーてー はらぎゃーてー はらそうぎゃーてー ぼーでぃーそわかー」ではこんなにふんだんに「諦」の字が使われています。
「 明きらむ」は「真理を見極める」。
そこから「周囲の状況をあるがままに見極め、見極めようとしている自分自身が認識できる範囲を知り、能力を発揮できる範囲=限界を悟ること」
という意味で使われ、
それで「限界を悟り、断念する」となり、「思いを断念する」という意味で
「諦める」が使われるようになったのではないか
という説があるそうです。
「わからない 」「もっと知りたい」という興味が執着を生み、理解するという事があきらめる、なら、前者は恋みたいなもので、後者は愛に近いのかもしれません。
年齢を重ねるとあきらめることが増えますが、イコール断念したことが増える、ではないのではないでしょうか。
「わかっちゃったから、とりあえずいいや」、みたいな「あきらめ」
そう、これは大人な感じです。
「怒り来らば怒り、悲しみあらば悲しみ、そのめぐるものめぐるが如くめぐらして、息乱すこと無きは全生の人也」
とは野口整体の創始者、野口晴哉の弁。
だから執着を生まないよう、「明らかにする」ということも大人のマナーですね。
「愛されたい」は「執着されたい」のではないですからね。
「あきらめる」という言葉の意味を最近より深く味わっているのです。
言霊を正しく使っていきたいです。OM
2013年8月13日火曜日
2013年7月24日水曜日
熟考には身体感覚を伴って。
日曜の選挙が終わり、(特にそのことに貢献したわけではありませんが)どっと頭の中に、普段漠然と想っている事や、断片的に知っている情報等が一気に押し寄せ、その処理に約一日かかりました。
http://matome.naver.jp/odai/2137303390336449901
今回最も話題となった三宅洋平さん。
一応まとめを載せておきます。ヤマン。
彼の言っている事は、政治屋として◯◯を実行します、とかそういうことではなくて、民主主義を構成する一市民として、私達に「もっと政治に参加しようぜ」と耳元でガンガン鐘を鳴らしてくれ、はっと何か本当の事をしなきゃと考えさせてくれる類いのものです。
彼の言う意識の持ち方は、彼が18万票近く獲得し落選したという今現在の状況でも変わらず、一人一人が出来る事、やっていかなければいけない事、を教えてくれます。
政治は賭け事でないからね、投票した人が勝った負けた、それで自分は得をする損をする、ではないんですよね。
自分がこんなに政治の動向に興味を持つようになったのはやはり311から。
ただでさえシングルマザーで思春期の息子、要介護の母親を抱えたしがないフリーランスのアラフォー女ですから、「ちょっとまってよ」と思う事がたくさんあるわけです。
自分がまだ20前半の頃(私はまだ選挙に行った事がなかった)、
周りにいたミュージシャンのおじさん達はけっこう熱く政治経済の話をしていました。
世界情勢の事もね。なんで自分の日常と関係ない事にこんなに興味持てるんだろうと思っていましたが、大人になればなるほどそれらは密接に生活や日常に関わってくるのですね。それを聞きながら、アメリカン文化に憧れてやまない、70、80年代をそのまま体現して生きる仲良しのおじさん達に、「でもアメリカって世界のリーダーだって勝手に勘違いしてるよね」などと突っ込み、その頃から空気を読まない私独自の目線は持っていたんだろうなと苦笑します。
逆に安倍さんが何をしようとしているのかもじっくり考えました。
どういう気持ちで日本を見ているのかなということですけど。
浄妙寺のお茶室です。
抹茶は思考を冴えさせてくれます。
丸い窓から切り取られた自然を凝縮した風景。「和」
丸い窓は禅の世界では悟りを表しているそう、だからこれは悟りの中から見える風景。
私にはそれぞれ自立したうえで関わりあって生かしあって一緒に存在している草木や石、水、風が感じられます。
今回憲法第96条、9条 、どういう風に変えて行きたいのか、そのビジョンは?
何を理想とし、それは何に対してなのか。
当たり前だけど目線は全然違うんですよ、良い悪いでなく。
だから大事なんですよね、選挙。
ちょっとしたきっかけで、三浦半島横須賀側に位置する安房口神社という場所にいってきました。
ここはどこからか運び込まれた大きな石が祀られているところで、社殿はありません。
そういう形式の神社は相当古い物らしく、少なくとも神話の世界のヤマトタケルもここを訪れたという言われがあり、パワースポットであることには間違いなさそうです。
千葉の館山にある神社と対になって「阿吽」なのだそうです。
わりと大きな山の頂上付近にあたるのですが、周りは高級新興住宅地としてすっかり樹々が切り倒され、この土地の霊性みたいなものは無くなってしまっていました。
お金ってシステムは、それしか見えなくなると何かを作るようで壊すなと、安心のようで不安を作るなと、平和なようで対立を作るなと、そのお金は何所から来て何を表しているものなのか(何を凝縮させたものなのか、たとえば誰かの時間、何処かの資源、誰かの感謝、誰かの欲望、とか)がわかっていれば良いものなのだけど。
動物は何にももっていないで生きている。
人間と動物は違う、かもしれませんが「生きる」システム、DNA的には大差ないはずなんです。
わー、気持ちいい、楽しい、快適、元気、美味しい、これ大好き、みたいな感覚ってなんで抑圧されてしまうのかな、日本の社会では。
鎌倉の花火は森戸から観ました。
多岐に渡っていろいろ考えてちょっと疲れたけれど、じっとしているよりは動いていた方がバランスがいいんです。身体が動く、頭も動く、心も動く、それに伴って周りの人も動く、お金もエネルギーも動く、だけど自然と繋がった状態で。
私はシンプルに自分の氣が上がる事を選択し続けます。
http://matome.naver.jp/odai/2137303390336449901
今回最も話題となった三宅洋平さん。
一応まとめを載せておきます。ヤマン。
彼の言っている事は、政治屋として◯◯を実行します、とかそういうことではなくて、民主主義を構成する一市民として、私達に「もっと政治に参加しようぜ」と耳元でガンガン鐘を鳴らしてくれ、はっと何か本当の事をしなきゃと考えさせてくれる類いのものです。
彼の言う意識の持ち方は、彼が18万票近く獲得し落選したという今現在の状況でも変わらず、一人一人が出来る事、やっていかなければいけない事、を教えてくれます。
政治は賭け事でないからね、投票した人が勝った負けた、それで自分は得をする損をする、ではないんですよね。
自分がこんなに政治の動向に興味を持つようになったのはやはり311から。
ただでさえシングルマザーで思春期の息子、要介護の母親を抱えたしがないフリーランスのアラフォー女ですから、「ちょっとまってよ」と思う事がたくさんあるわけです。
自分がまだ20前半の頃(私はまだ選挙に行った事がなかった)、
周りにいたミュージシャンのおじさん達はけっこう熱く政治経済の話をしていました。
世界情勢の事もね。なんで自分の日常と関係ない事にこんなに興味持てるんだろうと思っていましたが、大人になればなるほどそれらは密接に生活や日常に関わってくるのですね。それを聞きながら、アメリカン文化に憧れてやまない、70、80年代をそのまま体現して生きる仲良しのおじさん達に、「でもアメリカって世界のリーダーだって勝手に勘違いしてるよね」などと突っ込み、その頃から空気を読まない私独自の目線は持っていたんだろうなと苦笑します。
逆に安倍さんが何をしようとしているのかもじっくり考えました。
どういう気持ちで日本を見ているのかなということですけど。
浄妙寺のお茶室です。
抹茶は思考を冴えさせてくれます。
丸い窓から切り取られた自然を凝縮した風景。「和」
丸い窓は禅の世界では悟りを表しているそう、だからこれは悟りの中から見える風景。
私にはそれぞれ自立したうえで関わりあって生かしあって一緒に存在している草木や石、水、風が感じられます。
今回憲法第96条、9条 、どういう風に変えて行きたいのか、そのビジョンは?
何を理想とし、それは何に対してなのか。
当たり前だけど目線は全然違うんですよ、良い悪いでなく。
だから大事なんですよね、選挙。
ちょっとしたきっかけで、三浦半島横須賀側に位置する安房口神社という場所にいってきました。
ここはどこからか運び込まれた大きな石が祀られているところで、社殿はありません。
そういう形式の神社は相当古い物らしく、少なくとも神話の世界のヤマトタケルもここを訪れたという言われがあり、パワースポットであることには間違いなさそうです。
千葉の館山にある神社と対になって「阿吽」なのだそうです。
わりと大きな山の頂上付近にあたるのですが、周りは高級新興住宅地としてすっかり樹々が切り倒され、この土地の霊性みたいなものは無くなってしまっていました。
お金ってシステムは、それしか見えなくなると何かを作るようで壊すなと、安心のようで不安を作るなと、平和なようで対立を作るなと、そのお金は何所から来て何を表しているものなのか(何を凝縮させたものなのか、たとえば誰かの時間、何処かの資源、誰かの感謝、誰かの欲望、とか)がわかっていれば良いものなのだけど。
動物は何にももっていないで生きている。
人間と動物は違う、かもしれませんが「生きる」システム、DNA的には大差ないはずなんです。
わー、気持ちいい、楽しい、快適、元気、美味しい、これ大好き、みたいな感覚ってなんで抑圧されてしまうのかな、日本の社会では。
鎌倉の花火は森戸から観ました。
多岐に渡っていろいろ考えてちょっと疲れたけれど、じっとしているよりは動いていた方がバランスがいいんです。身体が動く、頭も動く、心も動く、それに伴って周りの人も動く、お金もエネルギーも動く、だけど自然と繋がった状態で。
私はシンプルに自分の氣が上がる事を選択し続けます。
2013年7月12日金曜日
健康力は排出力
「ヨガの先生は、病気の事に詳しくても仕方ない、それはお医者さんの仕事。ヨガの先生は健康に詳しい人でいないといけない」というのは師匠が言っていた事。
健康って何なのでしょう?
どういう事を言うのでしょう?
元気、ってすごく満たされていているイメージがあります。
「元気」とか「健康」のための薬やサプリメント、またはハーブとか、化粧品、健康器具、とにかく足りないものを補うためのものって世の中にあり過ぎる気がします。
◯◯が足りないから健康じゃない、元気じゃない、だからこれが必要、あれも必要というのは物を売りたい人が広めた考え方に他なりません。
女性ならわかると思うのですけど、生理の前、ホルモンの働きで身体が水分や栄養を溜め込もうとします。この時期不快感や倦怠感、PMSという症状にまとめらてしまうのですけど、調子が悪く感じる人が殆どだと思います。
逆に生理が始まると一気に排出力が高まり、スッキリして調子がよく感じます。
どんなに美味しい物を食べても、排出がよくないと気分は憂鬱です。
身体は重く、肌が荒れたり浮腫んだりします。
腸は食べ物を分解して必要な栄養素を身体に吸収しますが、そのとき余分な老廃物が排出されずにいると、そこからもまた吸収してしまいます。
アーユルヴェーダではアーマ(未消化物、毒素という意味)と言われますが、血液中に不要な物がたくさん吸収されて全身に運ばれてしまうのです。
病気の原因であるとされ、アーマを溜めない、アーマをいかに排出するか、というのが治療の基本的考えになっています。
毒素というのは最初お腹に溜まっています。
腎臓、肝臓など分解したり濾過する器官がありますが、機能が弱って来ると排出出来なくなってしまいます。
体力がある人というのは、排出力の強い人の事です。
お腹に力があって、呼吸を吐き出す、声が通る、お腹で熱を生産出来るので汗をかける、便通が良い、生理の周期が整っていて期間も短く終わる、安産で母乳の出が良い、悪い物を食べたとき吐き出せる、身体を冷やしてしまったら熱を出せる、など です。最後のふたつは病気っぽいですが、健康の証。
きちんと排出出来ないと、毒素が全身に回ってしまいます。
物理的に下方へ降りて行くので足に溜まりやすいです。
ヨガが健康に良いのは、姿勢が良くなったり筋力がアップしたり、自立神経の働きが整ったり ということも大きな要素ですが、主に排出力を高める、事に役立っているのだと思います。筋力も柔軟性も、横隔膜を使った深い呼吸、バンダもロックしてエネルギーを溜めるためのもの、であることは間違いないですが、結果排出する力が高まります。
体力がないと、排出出来ません。
元気がないと掃除をする気力も湧かないのと同じです。
ちょっと汚れて散らかっているけどまあいいや、が身体の中で 起きている状態。
すごく豪華な造りの場所でなくても、きちんと片付いていて清潔ですっきりしている空間は居心地良く感じられます。
私達の身体は、何か足りないものをを吸収するために健康であるべきなのではなく、きちんと排出するために、筋力にしても意志にしても健康であるべきなのだと思います。
また、感情も思考も溜めずに表現すべきだと思います。
元気な人って大抵言いたい事を、毒になる手前のフレッシュなうちに言っている(笑)
溜まるとたいした事でなくても毒になってしまうのですよね。
また、連日ニュースで報道されている、熱中症は、身体の中に熱が溜まってしまう症状です。
熱が上手く排出されないので、機能障害が起きてしまうのです。
からだの機能は冷えると落ちます。
だから、出来るだけ冷やすのではなく、排出力を高めるための事をした方が有効です。
暑い国の料理って皆辛いでしょう?
汗を出すための誘発剤みたいなものです。
エアコンで外から冷やす、冷たい物を摂り過ぎて中から冷やす、どちらも身体の排出力を抑えてしまい、本当は必要なのに汗を出せなくなってしまいます、で、熱や毒素が溜まる、だるくなったりイライラしてしまったり、の悪循環になってしまいます。
その出し方の良い方法や加減を知っている事、が健康に詳しいということのひとつかなと思います。 何事もバランスなので、それを知ることが出来るようになるのもヨガを練習する事の大きな意味かなと思っています。
私が毎日練習を続ける理由でもあります。
OM
健康って何なのでしょう?
どういう事を言うのでしょう?
元気、ってすごく満たされていているイメージがあります。
「元気」とか「健康」のための薬やサプリメント、またはハーブとか、化粧品、健康器具、とにかく足りないものを補うためのものって世の中にあり過ぎる気がします。
◯◯が足りないから健康じゃない、元気じゃない、だからこれが必要、あれも必要というのは物を売りたい人が広めた考え方に他なりません。
女性ならわかると思うのですけど、生理の前、ホルモンの働きで身体が水分や栄養を溜め込もうとします。この時期不快感や倦怠感、PMSという症状にまとめらてしまうのですけど、調子が悪く感じる人が殆どだと思います。
逆に生理が始まると一気に排出力が高まり、スッキリして調子がよく感じます。
どんなに美味しい物を食べても、排出がよくないと気分は憂鬱です。
身体は重く、肌が荒れたり浮腫んだりします。
腸は食べ物を分解して必要な栄養素を身体に吸収しますが、そのとき余分な老廃物が排出されずにいると、そこからもまた吸収してしまいます。
アーユルヴェーダではアーマ(未消化物、毒素という意味)と言われますが、血液中に不要な物がたくさん吸収されて全身に運ばれてしまうのです。
病気の原因であるとされ、アーマを溜めない、アーマをいかに排出するか、というのが治療の基本的考えになっています。
毒素というのは最初お腹に溜まっています。
腎臓、肝臓など分解したり濾過する器官がありますが、機能が弱って来ると排出出来なくなってしまいます。
体力がある人というのは、排出力の強い人の事です。
お腹に力があって、呼吸を吐き出す、声が通る、お腹で熱を生産出来るので汗をかける、便通が良い、生理の周期が整っていて期間も短く終わる、安産で母乳の出が良い、悪い物を食べたとき吐き出せる、身体を冷やしてしまったら熱を出せる、など です。最後のふたつは病気っぽいですが、健康の証。
きちんと排出出来ないと、毒素が全身に回ってしまいます。
物理的に下方へ降りて行くので足に溜まりやすいです。
ヨガが健康に良いのは、姿勢が良くなったり筋力がアップしたり、自立神経の働きが整ったり ということも大きな要素ですが、主に排出力を高める、事に役立っているのだと思います。筋力も柔軟性も、横隔膜を使った深い呼吸、バンダもロックしてエネルギーを溜めるためのもの、であることは間違いないですが、結果排出する力が高まります。
体力がないと、排出出来ません。
元気がないと掃除をする気力も湧かないのと同じです。
ちょっと汚れて散らかっているけどまあいいや、が身体の中で 起きている状態。
すごく豪華な造りの場所でなくても、きちんと片付いていて清潔ですっきりしている空間は居心地良く感じられます。
私達の身体は、何か足りないものをを吸収するために健康であるべきなのではなく、きちんと排出するために、筋力にしても意志にしても健康であるべきなのだと思います。
また、感情も思考も溜めずに表現すべきだと思います。
元気な人って大抵言いたい事を、毒になる手前のフレッシュなうちに言っている(笑)
溜まるとたいした事でなくても毒になってしまうのですよね。
また、連日ニュースで報道されている、熱中症は、身体の中に熱が溜まってしまう症状です。
熱が上手く排出されないので、機能障害が起きてしまうのです。
からだの機能は冷えると落ちます。
だから、出来るだけ冷やすのではなく、排出力を高めるための事をした方が有効です。
暑い国の料理って皆辛いでしょう?
汗を出すための誘発剤みたいなものです。
エアコンで外から冷やす、冷たい物を摂り過ぎて中から冷やす、どちらも身体の排出力を抑えてしまい、本当は必要なのに汗を出せなくなってしまいます、で、熱や毒素が溜まる、だるくなったりイライラしてしまったり、の悪循環になってしまいます。
その出し方の良い方法や加減を知っている事、が健康に詳しいということのひとつかなと思います。 何事もバランスなので、それを知ることが出来るようになるのもヨガを練習する事の大きな意味かなと思っています。
私が毎日練習を続ける理由でもあります。
OM
2013年6月18日火曜日
父性と母性 成長或は変容を促す力
百田尚樹氏の「永遠の0」を読みました。
2009年発行だから、随分遅ればせながらですけれど、今このタイミングで読めて良かったなと思います。
日本の男性の美学とか、男女の差別、社会的な通念のようなものを理解する何かが私には少し欠けていて、普段それらを居心地悪いと感じてしまう事もしばしば。
だけど、どうしてなのか、いろいろ見えて来た気がしました。
ニュースでもいろいろ言われている過去の問題。
311があってから、現行のシステムは良くなっているのか悪くなっているのか、私には判断致しかねますが、一人一人の心の中に、「日本」という国を改めて考え直す、思い直すという事は少なからず起こったのではないかと思います。
この国の伝統、文化、良さ、何故この国はこうなのか、失いつつあるこのままでは忘れそうになってしまうような何かを、皆意識し出しているのを強く感じます。
ヨガインストラクターになってから10年も越える私ですが、日本の今のヨガ界創世記〜発展期に、既に教えはじめていた私は、当時からインストラクターになりたい人達が周りにたくさんいて、TT(ティーチャーズトレーニング)を卒業して、ヨガを教えたい、教え始めてる、もしくはインストラクター歴○年といういう生徒さんがクラスにおいで下さることは少なくありません。
だけれど、正直日本のヨガの将来、ますますおかしくなるんじゃないかと懸念を拭い去れないような想いも持っています。
お茶を濁さず言わせて貰うと、 どういうわけか、みなさん外国人講師や男性には新しい知識を教わりたがるのに、自分の事、見られて指摘されるのは同じ日本人女性からは嫌う傾向にあるのですよね。男性はやっぱり女性が先生なのはやりずらいようだし、パートナーの方がよく思わないケースもよくありますよ。そこは何かちょっともやっとしますね。
ヨガを教えるという事は、自分を客観視出来て、心身の姿勢の整え方も知っててこその仕事です。
みんな同列の仲良し、みたいなの私は違うと思っています。
そこには観る側、観られる側があって、 生徒は見られる事で徐々に自分自身を自ら観る事が出来るようになり、さらにそれが的確で周りに対してもその人の成長や回復のためになるのであれば、観る側をやっていくのだと思うのです。
何か自分自身の悩みや身体の不調や生き方の模索などと向かい合って行くためにヨガを選んだ人は多いと思います。
変わりたい、変わらなきゃ、そういう想いで張りつめてTTを受ける感じ、もしくはあまりそういう面を表に出さず、「私はヨガ教えるつもりはないですけど、自分の勉強のために」な人も多いですよね。
受けているとき、いろんな気付きがあり、自分がどんどん変わっていく、先生に認められる、ヨガでは競争はない、ありのままの自分らしさを大切にする、みんな繋がっている 。。。云々
本当に成長、変化していくためには、まずは母性的なエネルギーが必要です。
どこかで傷ついて、自己否定したり、自信をなくしたり、目標を見失ったり、いままでのやり方では上手くいかないとわかってきたとき、人は当然落ち込んだり、怒りや不安を感じます。人によってはそれを認められない場合も多いでしょう。
本当の変化を起こすには、先ず受容や育むエネルギーである母性的エネルギーを充分に満たし、自尊心や、正直に自己を表現して認められる自信、安心感を充分培ってから、父性的エネルギーと対峙する、ステップが必要です。
だけど、母性的エネルギーチャージの段階から先に進めないか、自尊心が充分育っていない段階でいきなり父性的エネルギーに対峙しようとする、自分自身に対してのSなところが多く見受けられ、却って身体や心を追い込んだり、強い指導をする教師に倒錯したりします。
父性的エネルギーとは、現行システムや経済、社会的な事柄、自己実現のステップに欠かせない感情を客観視する思考的安定さ、または思い込み、外傷、トラウマ、自分が強く影響を受けた出来事、等変化の前に障害となって立ちはだかるもの。
自分を守ってくれていたり必要だったものですが、父性とは柔軟に変化していかなければ成長や変容の障害となり得るものなのです。
何故かというと、母性が受容し、育む性質を持つ物であるならば、父性は制限し限界を与え、時には壊していくような性質を持っているからです。
インドの三大神、ヴィシュヌ、ブラフマー、シヴァは、それぞれが三位一体となって入れ替わり宇宙を創造、維持、破壊→再生、のサイクルを動かしています。
だから理に叶っているのだと思います。
それに対して女神は、ウマがパールヴァティに生まれ変わり、その強い側面はドゥルガーと称され、さらに彼女が我を忘れる程怒ったとき、カーリーという恐ろしい側面が姿を現し、夫であるシヴァでさえも踏みつけます。
そんな風に、女性は自身がその時々で変化する存在です。
戦後日本から無くなってしまったのは、父性かなと思います。
誰も父性を正しく扱えなくなってしまった。
だから日本のヨガも何かが欠けている気がする。
優しいおおらかな母性、力強く、決まり事を設けコントロールする父性。
でも父性はずうっと変わらないままだと役に立たなくなってしまうのです。
守り、規律を与え成長させてくれていたものが、自分を縛る枷にもなります。
それを変えて超えて行くのが成長であり、変容です。
ヨガでやっていくところ。
私がこういう目線を持てるのは、シングルマザーであり、思春期の息子を持っているからだと思います。両方やらなければいけないし、異性の成長、変容して行く様子を日々ニュートラルに観察出来ているからだと思います。
子供が成長して行くとき、お母さんに守られて、育まれて、たとえどんな失敗をしても許し認められ、愛され、勇気づけられ、教えられ、自分を尊ぶ心と自信を培って徐々に社会と関わっていく時間が増えます。そこではうまくいかなかったり、困難な事があったりして凹んだとしても、またエネルギーをチャージして困難を乗り越えて行きます。
父親は、越えたくても越えられない存在、時には自分を否定されたり、制限を与えられたりします。尊敬する気持ちも芽生えますが、その父が作った制限を超えようとする事で男の子は男になっていきます。
女の子にも変化は必要ですが、結婚、妊娠出産などで自然に変わらずを得なかったり、育った環境とは違う価値観の家庭や組織に入る事で成長、変容して行きます。
今はその制限がない状態。
なんでもいいのよ、という母性的なエネルギーだけだと、子供は何所までが限界なのかを確かめようと、暴走します。わざと叱られるような事、悪いとわかっている事をして、自分が超えて行くべき目標を設定しようとします。
的確な制限を与えられる事によって、観てもらっている、守られている安心感が生じます。
叱られない、というのは成長過程においては漠然とし過ぎていて不安なのです。
今はそれがないまま、安心を求めて母性エネルギーにみんなが寄り集まろうとしているように思えます。必要とされて、女性はどんどん強く本能的になっていく。
楽だけど、間違った事は何ひとつないけど、なんとなくバランスがとれていない感じ。
本当に必要なのは的確な父性なのかもしれないなと、感じました。
私が育った家庭は私が思春期の頃にはもう父親がいませんでしたので、私は特に制限される父性エネルギーを知りませんし、簡単には従わない傾向にあります。
だからこそ、必要性がとてもよくわかります。
両者は誰しもが自分の中に持っているエネルギーです。
使う場面やタイミング、順番を間違えないようにすれば、自分や周りを成長させ、望んだ変化を与える事になっていきます。
2013年の今、父性、母性、男性、女性がそれぞれの役割をするのではなく、誰しもが持っている両方のエネルギーを、関わりあいの中で、観たり観られたり、自身の中で調和させていく時代なのかなと思います。
平和ですよね。守っていかなきゃ。
OMShanti
2009年発行だから、随分遅ればせながらですけれど、今このタイミングで読めて良かったなと思います。
日本の男性の美学とか、男女の差別、社会的な通念のようなものを理解する何かが私には少し欠けていて、普段それらを居心地悪いと感じてしまう事もしばしば。
だけど、どうしてなのか、いろいろ見えて来た気がしました。
ニュースでもいろいろ言われている過去の問題。
311があってから、現行のシステムは良くなっているのか悪くなっているのか、私には判断致しかねますが、一人一人の心の中に、「日本」という国を改めて考え直す、思い直すという事は少なからず起こったのではないかと思います。
この国の伝統、文化、良さ、何故この国はこうなのか、失いつつあるこのままでは忘れそうになってしまうような何かを、皆意識し出しているのを強く感じます。
ヨガインストラクターになってから10年も越える私ですが、日本の今のヨガ界創世記〜発展期に、既に教えはじめていた私は、当時からインストラクターになりたい人達が周りにたくさんいて、TT(ティーチャーズトレーニング)を卒業して、ヨガを教えたい、教え始めてる、もしくはインストラクター歴○年といういう生徒さんがクラスにおいで下さることは少なくありません。
だけれど、正直日本のヨガの将来、ますますおかしくなるんじゃないかと懸念を拭い去れないような想いも持っています。
お茶を濁さず言わせて貰うと、 どういうわけか、みなさん外国人講師や男性には新しい知識を教わりたがるのに、自分の事、見られて指摘されるのは同じ日本人女性からは嫌う傾向にあるのですよね。男性はやっぱり女性が先生なのはやりずらいようだし、パートナーの方がよく思わないケースもよくありますよ。そこは何かちょっともやっとしますね。
ヨガを教えるという事は、自分を客観視出来て、心身の姿勢の整え方も知っててこその仕事です。
みんな同列の仲良し、みたいなの私は違うと思っています。
そこには観る側、観られる側があって、 生徒は見られる事で徐々に自分自身を自ら観る事が出来るようになり、さらにそれが的確で周りに対してもその人の成長や回復のためになるのであれば、観る側をやっていくのだと思うのです。
何か自分自身の悩みや身体の不調や生き方の模索などと向かい合って行くためにヨガを選んだ人は多いと思います。
変わりたい、変わらなきゃ、そういう想いで張りつめてTTを受ける感じ、もしくはあまりそういう面を表に出さず、「私はヨガ教えるつもりはないですけど、自分の勉強のために」な人も多いですよね。
受けているとき、いろんな気付きがあり、自分がどんどん変わっていく、先生に認められる、ヨガでは競争はない、ありのままの自分らしさを大切にする、みんな繋がっている 。。。云々
本当に成長、変化していくためには、まずは母性的なエネルギーが必要です。
どこかで傷ついて、自己否定したり、自信をなくしたり、目標を見失ったり、いままでのやり方では上手くいかないとわかってきたとき、人は当然落ち込んだり、怒りや不安を感じます。人によってはそれを認められない場合も多いでしょう。
本当の変化を起こすには、先ず受容や育むエネルギーである母性的エネルギーを充分に満たし、自尊心や、正直に自己を表現して認められる自信、安心感を充分培ってから、父性的エネルギーと対峙する、ステップが必要です。
だけど、母性的エネルギーチャージの段階から先に進めないか、自尊心が充分育っていない段階でいきなり父性的エネルギーに対峙しようとする、自分自身に対してのSなところが多く見受けられ、却って身体や心を追い込んだり、強い指導をする教師に倒錯したりします。
父性的エネルギーとは、現行システムや経済、社会的な事柄、自己実現のステップに欠かせない感情を客観視する思考的安定さ、または思い込み、外傷、トラウマ、自分が強く影響を受けた出来事、等変化の前に障害となって立ちはだかるもの。
自分を守ってくれていたり必要だったものですが、父性とは柔軟に変化していかなければ成長や変容の障害となり得るものなのです。
何故かというと、母性が受容し、育む性質を持つ物であるならば、父性は制限し限界を与え、時には壊していくような性質を持っているからです。
インドの三大神、ヴィシュヌ、ブラフマー、シヴァは、それぞれが三位一体となって入れ替わり宇宙を創造、維持、破壊→再生、のサイクルを動かしています。
だから理に叶っているのだと思います。
それに対して女神は、ウマがパールヴァティに生まれ変わり、その強い側面はドゥルガーと称され、さらに彼女が我を忘れる程怒ったとき、カーリーという恐ろしい側面が姿を現し、夫であるシヴァでさえも踏みつけます。
そんな風に、女性は自身がその時々で変化する存在です。
戦後日本から無くなってしまったのは、父性かなと思います。
誰も父性を正しく扱えなくなってしまった。
だから日本のヨガも何かが欠けている気がする。
優しいおおらかな母性、力強く、決まり事を設けコントロールする父性。
でも父性はずうっと変わらないままだと役に立たなくなってしまうのです。
守り、規律を与え成長させてくれていたものが、自分を縛る枷にもなります。
それを変えて超えて行くのが成長であり、変容です。
ヨガでやっていくところ。
私がこういう目線を持てるのは、シングルマザーであり、思春期の息子を持っているからだと思います。両方やらなければいけないし、異性の成長、変容して行く様子を日々ニュートラルに観察出来ているからだと思います。
子供が成長して行くとき、お母さんに守られて、育まれて、たとえどんな失敗をしても許し認められ、愛され、勇気づけられ、教えられ、自分を尊ぶ心と自信を培って徐々に社会と関わっていく時間が増えます。そこではうまくいかなかったり、困難な事があったりして凹んだとしても、またエネルギーをチャージして困難を乗り越えて行きます。
父親は、越えたくても越えられない存在、時には自分を否定されたり、制限を与えられたりします。尊敬する気持ちも芽生えますが、その父が作った制限を超えようとする事で男の子は男になっていきます。
女の子にも変化は必要ですが、結婚、妊娠出産などで自然に変わらずを得なかったり、育った環境とは違う価値観の家庭や組織に入る事で成長、変容して行きます。
今はその制限がない状態。
なんでもいいのよ、という母性的なエネルギーだけだと、子供は何所までが限界なのかを確かめようと、暴走します。わざと叱られるような事、悪いとわかっている事をして、自分が超えて行くべき目標を設定しようとします。
的確な制限を与えられる事によって、観てもらっている、守られている安心感が生じます。
叱られない、というのは成長過程においては漠然とし過ぎていて不安なのです。
今はそれがないまま、安心を求めて母性エネルギーにみんなが寄り集まろうとしているように思えます。必要とされて、女性はどんどん強く本能的になっていく。
楽だけど、間違った事は何ひとつないけど、なんとなくバランスがとれていない感じ。
本当に必要なのは的確な父性なのかもしれないなと、感じました。
私が育った家庭は私が思春期の頃にはもう父親がいませんでしたので、私は特に制限される父性エネルギーを知りませんし、簡単には従わない傾向にあります。
だからこそ、必要性がとてもよくわかります。
両者は誰しもが自分の中に持っているエネルギーです。
使う場面やタイミング、順番を間違えないようにすれば、自分や周りを成長させ、望んだ変化を与える事になっていきます。
2013年の今、父性、母性、男性、女性がそれぞれの役割をするのではなく、誰しもが持っている両方のエネルギーを、関わりあいの中で、観たり観られたり、自身の中で調和させていく時代なのかなと思います。
平和ですよね。守っていかなきゃ。
OMShanti
2013年6月13日木曜日
人を見る側として
今日は都内で、とある新設ヨガクラスのインストラクターのオーディションをさせて頂きました。
当たり前ですが、皆さんそれぞれ学んで来た事を披露してくれます。
自信がありそうだったりなさそうだったり、デモ中生徒役の方々とコミュニケーション出来ていたり、緊張のあまり一方的だったり、たくさん喋ったり、間を大事にしたり。
上手い下手ではなく、皆さんそれぞれに素晴らしいのです。
得意な事も違うし、ヨガ自体の捉え方も違っていて当たり前。
で、今日私がどんなところを見させて頂いていたかというと、「全体への配慮が出来るかどうか」でした。進行、次の方へ繋いで行く時の立ち居振る舞い、言葉 遣い、時間配分、表情や仕草、アジャストするときの声がけや歩き方など、テクニックそのものではなく、場を創り出すその方の想いのようなところ。
TTを受けてインストラクターとして一歩を踏み出したい、またどんどんキャリアを積んで行きたい、気持ちはとてもわかります。
結果はともあれ、お一人お一人に一言を添えてお知らせするのですが、自分の知っている事を伝える事より生徒さんの身体や仕草や表情や息遣いから発せられる 声になっていない言葉を聞いて、そこに何が必要かさっと見極めて差し出してあげられるようこれからも頑張って下さい、ということを書きました。
だけどそうじゃなくてもいいのだと思います。
これは私が自分に言っている事。
受け取る人に委ねられる、自分はそんな柔らかい距離感に助けられてきたのだと思っています。
当たり前ですが、皆さんそれぞれ学んで来た事を披露してくれます。
自信がありそうだったりなさそうだったり、デモ中生徒役の方々とコミュニケーション出来ていたり、緊張のあまり一方的だったり、たくさん喋ったり、間を大事にしたり。
上手い下手ではなく、皆さんそれぞれに素晴らしいのです。
得意な事も違うし、ヨガ自体の捉え方も違っていて当たり前。
で、今日私がどんなところを見させて頂いていたかというと、「全体への配慮が出来るかどうか」でした。進行、次の方へ繋いで行く時の立ち居振る舞い、言葉 遣い、時間配分、表情や仕草、アジャストするときの声がけや歩き方など、テクニックそのものではなく、場を創り出すその方の想いのようなところ。
TTを受けてインストラクターとして一歩を踏み出したい、またどんどんキャリアを積んで行きたい、気持ちはとてもわかります。
結果はともあれ、お一人お一人に一言を添えてお知らせするのですが、自分の知っている事を伝える事より生徒さんの身体や仕草や表情や息遣いから発せられる 声になっていない言葉を聞いて、そこに何が必要かさっと見極めて差し出してあげられるようこれからも頑張って下さい、ということを書きました。
だけどそうじゃなくてもいいのだと思います。
これは私が自分に言っている事。
受け取る人に委ねられる、自分はそんな柔らかい距離感に助けられてきたのだと思っています。
2013年6月12日水曜日
身体全体の緊張を解くには
月に2〜3度くらい、時間を作って岩盤浴かサウナに行きます。
私にとっては、魂を浄化するスウェットロッジ的な意味合いが大きいので、そこにTVなんて設置されていなくて全然いいのに、といつも思うのですが、 そこで天皇皇后両陛下の映像を目にしました。
美智子妃殿下が、頚椎症性神経根症という症状でしばらくご静養が必要だとか。
お二人ともいつも頭を低く、首を前に伸ばしている御姿勢でいらっしゃいます。
ヨガインストラクター的にいろいろなことを考えてしまいました。
最近クラスでは脊椎のS字カーブについて、頭の位置や骨盤の位置を自分本来のところに据える、ということをお伝えしています。
アサナ中よく注意するのは、「頭から先に行かない」という事です。
前屈、後屈、頭を上下に動かす動きは、身体が追いついていかない場合程多く、
様々な場面で見られます。
面白い事に、捻りの場合(頭を水平に動かす)は動きがあまりみられません。
皆さん身体だけ捻って、首は殆ど動かさず、まるでそのような動かし方を忘れてしまったかのようです。筋肉も硬くなってしまっているんですね。
「首の筋肉の習慣的緊張は、必然的に身体全体の緊張を引き起こすことが予測される。
体全体の緊張を解くには、首の筋肉を解放する事からはじめなければならない。
理由1、首の緊張は、骨格全体における骨と骨の関係をゆがめ、骨格全体の能力が損なわ れ、体重をうまく配分する事ができなくなる。
理由2、首の緊張は 、随意運動をサポートする不随意筋に干渉する。
(随意筋=自分の意志で動かす筋肉、不随意筋=自分の意志では動かせない筋肉、 心臓や、血管壁、内臓壁の筋肉等)
動いているとき身体が自由であれば、頭が先に動いて身体がそれについてくる。
特に注意すべきことは、頭が先に動いて身体が後からついてくる、という順序である。」
(ソマティック心理学 / 久保隆司著)
何かを見たり聞いたり、脳はいつも刺激を受け、感覚受信器官である、目、鼻、口、耳(私は頭頂部もそうだと思っていますけど。だから帽子を被ると感覚が通常の3分の1くらい鈍くなったような気持ちになります。)は対象に向かって前のめりの事が多いですよね。
母が脳出血で倒れ、退院したとき、背中が丸くしょぼんと自信のないような佇まいで、耳が聞こえづらくなってしまったので、人と話す時はいつもよく聞き取ろうと首を前に突き出していました。
そのせいでしょう、筋力の衰えた肩や腰が痛いと言っていたので、介護認定を受けて、リハビリ施設へ週一度ですが通ってもらう事にしました。
長年ヨガをやっていたことと、介護士さん達が優秀なのでしょう。
最近めきめきと背筋がしゃんとし、下を見ていたところから前をしっかりみられるようになって、それに伴い表情も明るく、日常の動作も自信を持って行えている様子です。
一人で電車に乗って出掛けたりも出来るようになりました。
脳の機能も殆ど戻っていると思います。
母が主に行っているのは、脚力と背筋を鍛えること、のようです。
姿勢ってこんなにも人を変えてしまうものなのだと改めて思いました。
クラスでアサナを実践しながら専門的な事をお伝えするのは時間的に限度があるのですが、Pranic Yogaの基本、「呼吸を背中に」前のめりの意識を後ろに戻す事は とても有効だと思っています。
サイドアングル(パールシュヴァコーナアサナ)の写真を載せたかったのですが、ちゃんとしたものがなかったので、パリヴリッタウパヴィシュタコーナアサナで。
友人が撮ってくれたこの写真、とても気に入っています。
この時の私は木の上でバランスをとるのに、とても頭の位置を気にしていました。
ほんの少しで視界も全体のバランスも、肩や胸の緊張も、ヨガをしている時にはその生理機能や自律神経の働き方も大きく変えてしまいます。
自分が緊張しているな、と思ったら、頭をほんの少し後ろへ引いてみて下さい。
変わろうとしているとき、本来の自分を取り戻したいとき、慣れ親しんだ姿勢へ戻ってしまいそうになったら、頭を少し後ろへ。
ちょうどいい位置は、徐々に見つけていきましょう。
身体は最初から既に知っているのですから。
日常の中で意識しておかないと、誰しもやがて歳を取り、いつの間にか本来の自分らしい姿勢に戻れなくなってしまうのです。
私にとっては、魂を浄化するスウェットロッジ的な意味合いが大きいので、そこにTVなんて設置されていなくて全然いいのに、といつも思うのですが、 そこで天皇皇后両陛下の映像を目にしました。
美智子妃殿下が、頚椎症性神経根症という症状でしばらくご静養が必要だとか。
お二人ともいつも頭を低く、首を前に伸ばしている御姿勢でいらっしゃいます。
ヨガインストラクター的にいろいろなことを考えてしまいました。
最近クラスでは脊椎のS字カーブについて、頭の位置や骨盤の位置を自分本来のところに据える、ということをお伝えしています。
アサナ中よく注意するのは、「頭から先に行かない」という事です。
前屈、後屈、頭を上下に動かす動きは、身体が追いついていかない場合程多く、
様々な場面で見られます。
面白い事に、捻りの場合(頭を水平に動かす)は動きがあまりみられません。
皆さん身体だけ捻って、首は殆ど動かさず、まるでそのような動かし方を忘れてしまったかのようです。筋肉も硬くなってしまっているんですね。
「首の筋肉の習慣的緊張は、必然的に身体全体の緊張を引き起こすことが予測される。
体全体の緊張を解くには、首の筋肉を解放する事からはじめなければならない。
理由1、首の緊張は、骨格全体における骨と骨の関係をゆがめ、骨格全体の能力が損なわ れ、体重をうまく配分する事ができなくなる。
理由2、首の緊張は 、随意運動をサポートする不随意筋に干渉する。
(随意筋=自分の意志で動かす筋肉、不随意筋=自分の意志では動かせない筋肉、 心臓や、血管壁、内臓壁の筋肉等)
動いているとき身体が自由であれば、頭が先に動いて身体がそれについてくる。
特に注意すべきことは、頭が先に動いて身体が後からついてくる、という順序である。」
(ソマティック心理学 / 久保隆司著)
何かを見たり聞いたり、脳はいつも刺激を受け、感覚受信器官である、目、鼻、口、耳(私は頭頂部もそうだと思っていますけど。だから帽子を被ると感覚が通常の3分の1くらい鈍くなったような気持ちになります。)は対象に向かって前のめりの事が多いですよね。
母が脳出血で倒れ、退院したとき、背中が丸くしょぼんと自信のないような佇まいで、耳が聞こえづらくなってしまったので、人と話す時はいつもよく聞き取ろうと首を前に突き出していました。
そのせいでしょう、筋力の衰えた肩や腰が痛いと言っていたので、介護認定を受けて、リハビリ施設へ週一度ですが通ってもらう事にしました。
長年ヨガをやっていたことと、介護士さん達が優秀なのでしょう。
最近めきめきと背筋がしゃんとし、下を見ていたところから前をしっかりみられるようになって、それに伴い表情も明るく、日常の動作も自信を持って行えている様子です。
一人で電車に乗って出掛けたりも出来るようになりました。
脳の機能も殆ど戻っていると思います。
母が主に行っているのは、脚力と背筋を鍛えること、のようです。
姿勢ってこんなにも人を変えてしまうものなのだと改めて思いました。
クラスでアサナを実践しながら専門的な事をお伝えするのは時間的に限度があるのですが、Pranic Yogaの基本、「呼吸を背中に」前のめりの意識を後ろに戻す事は とても有効だと思っています。
サイドアングル(パールシュヴァコーナアサナ)の写真を載せたかったのですが、ちゃんとしたものがなかったので、パリヴリッタウパヴィシュタコーナアサナで。
友人が撮ってくれたこの写真、とても気に入っています。
この時の私は木の上でバランスをとるのに、とても頭の位置を気にしていました。
ほんの少しで視界も全体のバランスも、肩や胸の緊張も、ヨガをしている時にはその生理機能や自律神経の働き方も大きく変えてしまいます。
自分が緊張しているな、と思ったら、頭をほんの少し後ろへ引いてみて下さい。
変わろうとしているとき、本来の自分を取り戻したいとき、慣れ親しんだ姿勢へ戻ってしまいそうになったら、頭を少し後ろへ。
ちょうどいい位置は、徐々に見つけていきましょう。
身体は最初から既に知っているのですから。
日常の中で意識しておかないと、誰しもやがて歳を取り、いつの間にか本来の自分らしい姿勢に戻れなくなってしまうのです。
2013年5月29日水曜日
エゴはどこから来るの?
先日「その原因は?」でエゴについて書きました。
今日はそのエゴがどうしてどこから来るのかを書きたいと思います。
世の中は、「与える事」と「受け取る事」で成り立っています。
それはどちらがどうということはなく、吸ったら吐くのと同じように、自然な事です。
小さな子供のうちは受け取る事ばかりでしょう。
受け取って受け取って育っていきます。
与える方はそれが喜びです。
まっすぐ受け取ってもらえた時には、心から幸せを感じるもの。
だから、与える事をさせてくれて、受け取ってくれてありがとうなのです。
ですから、例えば子供が好き嫌いをして、作ったご飯を嫌がって食べないとき、お母さんはとてもがっかりします。
そして子供が受け取りやすいように様々に与え方を工夫します。
子供の方も、自分が受け取っているんだ、与えられているんだという事を自覚しはじめます。そうすると、受け取った時はありがとう、受け取れなかった時はごめんなさいと言う、物事が潤滑に流れるルールも知っていきます。
そして、物事をやりとりしているだけではなく、愛情ややさしさ、思いやりを循環させているのだという事を理解します。そして、物事はそういうものに乗せないと上手く運ばないし回って行かないんだという事も次第に理解します。
そうして社会全体で物事を育んで世界が成り立っているのだということも理解します。
ただ、ここでこの単純なところが複雑になってしまった場合、このルールを理解しないまま、欲しい、くれない、欲しい、奪う、欲しい、でも受け取らない、欲しい、いや、やっぱり欲しくない、みたいな捩じれたやりとりになってしまいます。
エゴはここから来るのでしょう。
愛されていないという思い。
受け取るばかりだった子供が大きくなって、 アルバイト等で少しずつ社会と関わる時、やはり最初は自分が賃金を「受け取る」という発想が大きいと思います。
最初から最高のサービスを提供しようなんて考えられる高校生や大学生はなかなかいないと思いますが、徐々に、「与える」ということがわかりはじめて来ると、その「ありがとう」がわかって来ます。相手が受け取れないような与え方をしてしまった時には「ごめんなさい」です。
また、受け取るばかりだった時には見えて来なかったいろんな与え方の形がわかるようになります。そしてますます受け取る事が上手になって行きます。
それが大人になるということです。
そのシンプルで潤滑な流れの中にエゴが入って来てしまうと、与える事は損、出来るだけたくさん受け取ろう、もしくは与えられているものに気付けず、怒ってばかり、欲求不満ばかり、自分ばかりが与えている、吸い取られている、奪われていると感じ、消耗してしまいます。与えている側は、自分のエネルギーを無駄にされてしまったように思い、
そうなると物事は潤滑に回れず、その命が衰えて行きます。
ただし人それぞれ与える量と受け取る量は違っていいと思うのです。
だから多くを与えられる人に対しては、 自分が形として与えられない分応援したり、その人がその能力を最大に発揮出来るよう、敬意を持って接することはとても大事です。
そうすることは、その人がしている「与える」という行いを理解しているのだと伝えていることになります。それはまた自分の「与える」能力を磨き、社会の中でより大きな役割を果たせるのだと周りに理解させる事にも繋がります。
誰でも与える能力を持っています。
エゴがふたをしていることも多いでしょう。
だから、相手に少し力を送ってそのふたを開けるのです。(褒めるとか、好きな事を話題にするとか、状況を気遣うとか)そうすれば与える、受け取るの流れが潤滑になります。
エゴを優先させれば、流れが止まります。
感謝も発生せず命も社会も滅びていくのだろうなと思います。
誰でもエゴを持っています。
だから、それを理解し、流れが発生するように物事を、行動を、発言を、思考を選択していくのです。
今日はそのエゴがどうしてどこから来るのかを書きたいと思います。
世の中は、「与える事」と「受け取る事」で成り立っています。
それはどちらがどうということはなく、吸ったら吐くのと同じように、自然な事です。
小さな子供のうちは受け取る事ばかりでしょう。
受け取って受け取って育っていきます。
与える方はそれが喜びです。
まっすぐ受け取ってもらえた時には、心から幸せを感じるもの。
だから、与える事をさせてくれて、受け取ってくれてありがとうなのです。
ですから、例えば子供が好き嫌いをして、作ったご飯を嫌がって食べないとき、お母さんはとてもがっかりします。
そして子供が受け取りやすいように様々に与え方を工夫します。
子供の方も、自分が受け取っているんだ、与えられているんだという事を自覚しはじめます。そうすると、受け取った時はありがとう、受け取れなかった時はごめんなさいと言う、物事が潤滑に流れるルールも知っていきます。
そして、物事をやりとりしているだけではなく、愛情ややさしさ、思いやりを循環させているのだという事を理解します。そして、物事はそういうものに乗せないと上手く運ばないし回って行かないんだという事も次第に理解します。
そうして社会全体で物事を育んで世界が成り立っているのだということも理解します。
ただ、ここでこの単純なところが複雑になってしまった場合、このルールを理解しないまま、欲しい、くれない、欲しい、奪う、欲しい、でも受け取らない、欲しい、いや、やっぱり欲しくない、みたいな捩じれたやりとりになってしまいます。
エゴはここから来るのでしょう。
愛されていないという思い。
受け取るばかりだった子供が大きくなって、 アルバイト等で少しずつ社会と関わる時、やはり最初は自分が賃金を「受け取る」という発想が大きいと思います。
最初から最高のサービスを提供しようなんて考えられる高校生や大学生はなかなかいないと思いますが、徐々に、「与える」ということがわかりはじめて来ると、その「ありがとう」がわかって来ます。相手が受け取れないような与え方をしてしまった時には「ごめんなさい」です。
また、受け取るばかりだった時には見えて来なかったいろんな与え方の形がわかるようになります。そしてますます受け取る事が上手になって行きます。
それが大人になるということです。
そのシンプルで潤滑な流れの中にエゴが入って来てしまうと、与える事は損、出来るだけたくさん受け取ろう、もしくは与えられているものに気付けず、怒ってばかり、欲求不満ばかり、自分ばかりが与えている、吸い取られている、奪われていると感じ、消耗してしまいます。与えている側は、自分のエネルギーを無駄にされてしまったように思い、
そうなると物事は潤滑に回れず、その命が衰えて行きます。
ただし人それぞれ与える量と受け取る量は違っていいと思うのです。
だから多くを与えられる人に対しては、 自分が形として与えられない分応援したり、その人がその能力を最大に発揮出来るよう、敬意を持って接することはとても大事です。
そうすることは、その人がしている「与える」という行いを理解しているのだと伝えていることになります。それはまた自分の「与える」能力を磨き、社会の中でより大きな役割を果たせるのだと周りに理解させる事にも繋がります。
誰でも与える能力を持っています。
エゴがふたをしていることも多いでしょう。
だから、相手に少し力を送ってそのふたを開けるのです。(褒めるとか、好きな事を話題にするとか、状況を気遣うとか)そうすれば与える、受け取るの流れが潤滑になります。
エゴを優先させれば、流れが止まります。
感謝も発生せず命も社会も滅びていくのだろうなと思います。
誰でもエゴを持っています。
だから、それを理解し、流れが発生するように物事を、行動を、発言を、思考を選択していくのです。
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