2013年10月12日土曜日

ヒンドゥーの女神達と女性性への理解

ナーヴァラートリー8日目。

おおまかに説明させて頂くと、
ナーヴァというのは9という意味、ラートリーは夜という意味。9つの夜。

5日の新月から、ナヴァーラートリーが始まっています。
女神を讃え、祈りを捧げる祭典です。

ヒンドゥ三大神と言ったら、シヴァ(破壊)、ヴィシュヌ(維持)、ブラフマー(創造)ですが、それぞれ、パールヴァティ、ラクシュミー、サラスヴァティーという妃がいます。
そしてシヴァの奥さんパールヴァティは、その姿をドゥルガー、カーリーと変化させます。
良妻賢母で愛情深いパールヴァティーは、悪と対峙するため、戦士のドゥルガーに姿を変えます。
 パールヴァティー(左)、シヴァ、ガネーシャの神様一家
ドゥルガー


9日間の最初の 3日はドゥルガーを、次の3日はラクシュミーを、最後の3日はさらすヴァティーにと、順番に祈りを捧げていくのがナーヴァラートリーです。
最初ドゥルガーに 祈りを捧げるのは、自分の悪徳、悪癖、心の弱さ、邪念などを浄化するためです。
自分で悪いとわかっているからこそ、普段表に出さないよう隠しているような部分。

それらが消えると、富と豊かさのラクシュミーを讃えます。

ラクシュミー

悪いものがなくなると良いものが入ってくる、ということでしょうか。

最後の3日は智慧と才能の女神サラスヴァティーに祈りを捧げます。

 悪徳がなくなり、豊かさを得る事で、自分本来の才能が輝き出すということでしょうか。

3日づつですが、この悪を常に見張り取り除く役割のドゥルガーには、最初の3日が終わってからもずっと祈りが捧げられます。
きっとそこが一番大事なところなんですね。
 些細な邪さや純粋でないものは、容易に人の心に入って来ます。
ドゥルガーが闘っている悪魔は、その血の一滴からさらに100人もの悪魔を生み出してしまいます。悪い思考がまた次のもっと悪い考えを引き起こし、とめどなく溢れ出して身を滅ぼさんとするかのように。
だから、ドゥルガーは、カーリーという最終形態に変化します。

 カーリー

すべてをなぎ倒す勢いで逆上しまくり、恐ろしいほどの力で悪魔を倒し、その血を一滴も残さないよう飲み干して、勝利のダンスを踊ります。
そのダンスが激し過ぎて、世界が崩壊してしまうと止めに入った最愛の夫シヴァを踏みつけ、やっと我に返り舌をぺろっと出します。
ナヴァラートリーの終わりの方には、ドゥルガーでは太刀打ち出来ない深いところの根強い悪を根こそぎきれいにさらって貰います。
そのため、カーリーにも祈りが捧げられます。
以前はなんてグロテスクなんだと思っていましたが、今は美しいとさえ思う。
不思議です。

私はこのインドの世界観が大好きです。
女性の強さを神格化し、押し止めるでも押さえ付けるでもなくそういうものなんだと祀り上げる。素晴らしい理解だなと思います。
そして、「女性ってこういうものだ」と教えているのでしょう。

従順で素直な女性像 ばかりを良しとするのは、男性の性の意識が関係しているのだと思います。
日本は仏教の影響を受けているので、そういう風潮が(表向きには)強いですね。
仏陀はもちろん男性だから。
女性の魅力をマーラー(悪魔)だと説いています。
誘惑に負けず、己の修行を完成させるのだと。
抗い難いのは自らの心もしくは本能の問題。女性が罪なわけではありません。
でもそう伝えられて来て、そういうすり替わった考えで女性が卑下され支配されて来た歴史があって。

タントラの考え方では、シヴァとパールヴァティは本来一体なのだと、男性性、女性性の合一 こそが悟りへの道であり、完成した姿なのだと教えられています。
また、シヴァの力をリンガと呼ばれる男根で現わし、至る所で祀られています。
それに対するのがヨーニです。リンガ/ヨーニは生命力や完成されたもののシンボルとして、もしくはともすれば非生産的な消耗となってしまう性を聖別することで、浄化しているのですね。
排除するのではなく、目を背けるのではなく、きちんと理解し正しく扱う。

インドにはカーマスートラという性を正しく扱うための奥義書があります。
タオも性エネルギーを正しく昇華させて自分の生命力を高め寿命を延ばす技などが古くから身分の高い人の間に秘伝として伝えられて来ました。健康に生きるための秘訣として、バランスの取れた生き方の一つの要素としてきちんと語られています。
ただし、教養のある人、心を律する強さのある人、身体的に健康である人、理解力があり真面目に修練する素養のある人、でないと正しく伝わらず、パワフルなその力が誤った使われ方をされてしまうので、取り扱い厳重注意で容易に表には出さなかったのですね。

最近よく書店などで、性の事を扱った新刊の書籍を目にします。
共通しているのは、間違った男性目線の屈折した性の意識を正しく戻して行こうというような内容。ヨガをする人が世界中で増えたり、インターネットなどで情報が迅速に行き渡るようになったこと、ここ最近の世界情勢や自然災害の猛威などから、変る事が必要と思う人が増えているのかもしれません。
私も、女性がまず自分の性である女性性を正しく理解し扱い、パートナーに伝えることが大事だと思っています。そうでしかリアルに伝わらないもの。
それから男の子を育てているお母さん。

2012年、男性性で進んで来た時代は終わり、今は女性性で循環させていく時代。
世界中のマスター達がそう語っていますよね。

ナーヴァーラートリーの期間、自分も自分のドゥルガーの気質を感じ、またカーリーの要素も持ち合わせている事を十分に受け入れ、それへの理解が深くなったと思います。
良妻賢母で愛情深いパールヴァティーは、 もともとはシヴァの婚約者サティーの生まれ変わりです。
従順で純粋で一心にシヴァを愛するサティーが、シヴァと結婚し、ドゥルガーの強さを身につけ、時にはカーリーにも変化する。
私はヨガを教えるという職業柄、また思春期の息子を持つシングルマザーである今の生き方から、日頃のドゥルガー気質がかなり高いですね。

女性ってそういうものではないでしょうか。
それが自然なんですよ。

ナーヴァーラートリー、残すあと一日。
すべての女神に、すべての女性性を讃えたいと思っています。

いつか聖地を回ってみたいです。




2013年9月24日火曜日

時間と空間と人と魂と教えと行動と。

3連休も終わり、やっと今日は少しのんびりしています。
先週は台風直撃だったから、この3日間はその分いろいろなことが詰まっていたのでは?

私もここしばらく(いつからか思い出せない)忙しい日々が続いていて、ヨガクラスも代講が続いたり、WSがあったり、横浜馬車道での新規クラスがあったりと、とても濃い毎日でした。刺激を受けたり考えさせられる事も多かったです。
14日のチャクラWSから。

ハンドアウトにいろんな情報をまとめましたが、「チャクラ」を知っている人は多くても、本当に自分自身と繋げて捉えられないと、すごく偏ってしまうと思うのです。
解剖学的な事、エネルギー的な事、私達の日常、ここ三次元という現実世界での成長の指針として、普段のクラスでお話仕切れない事をゆっくり時間をとってお話出来て良かったです。
こういうWSは今後もやって行きたいと思っていまーす(^ー^)/

嵐の後の空も海もすがすがしい。
季節が完全に秋へと移行。
この日はシヴァナンダクラスを急遽代講。
代講は多々あれど、自分が普段練習していないスタイルをお伝えするのだからと、当日、前夜とあれこれ勉強し直しました。
伝統を紐解く事で、気付く事も多かったし、新鮮でした。

 9/18は私事ながら40歳の誕生日でした。
自分が10代の頃、まさか自分が40歳まで生きられると思っていませんでした。
何故かそんな風に思っていました。
もっと年上に見られる事も、もっと若く見られる事もあるかと思いますが、歳取った気はします(笑)
この日は横浜馬車道でのクラスでした。
思いがけなく参加して下さった友人知人のお陰で、緊張せずにすみましたが、80代の方にヨガを教えるということについて、いろいろ考えたり気付かされたりする場面も多かったです。歳を重ねるって、自分の身体に対して 不安が増える事でもありますよね。
最初は「私は元気です」とアピールされていた方も、クラスの終わりにはいろいろと相談を打ち明けるように身体の事をお話し下さり、もっともっと呼吸や基本的な身体の中の使い方等をお伝えして、メンタル面でも効果が出るようにしていきたいなと思いました。

この日は夜にもクラスがあって、綺麗な月を見ながら、でも慌ただしく過ぎ、自分の事を思う時間を持てなくて少し立ち止まりたいような気分でした。
たくさんのお祝いメッセージを頂いて、返信していて一日過ぎてしまいましたが、100件近くもお祝いを頂いたのは初めてかも。ありがとうございました。

西洋ではbirthday wishが叶いますように、と皆に言って貰います。誕生日に願い事をする習慣なのです。私も友人に「何を願ったの?」と聞かれましたが、「日本人は誕生日に願い事をするというよりは、thanks givingみたいな感じだよ」と答えました。
本当にそうで、お祝いメッセージを頂くと、それにお返事することで、日頃の感謝も同時に伝えられるのでとてもありがたい日なのです。


次の日は中秋の名月。
クラスをふたつ終え、江ノ島の橋のたもとからこの夕陽を見る事が出来ました。
とても久しく会っていなかった方との時間を過ごし、タイムスリップしたというか、自分の現在位置を違う角度から眺め直したような気がしました。
タイミング的に、今後自分がどう生きていくのか考えてしまったけれど、まずは息子を大学に行かせるために生きる感じかなぁ。
本人の無邪気さに溜め息も出るような季節の移り変わり。


 翌日は、Patagonia主催のBanff Mountain Film Festivalに行って来ました。
去年に続き、招待チケットを頂いて、プログラムAB共に全12作品鑑賞してきました。


どの作品からも、人の持つ力の素晴らしさや自然の逞しさ、厳しさ、美しさ、神々しさ、などが伝わって来ました。
中でも、 女性クライマーは、自分自身の声を聞いて宇宙とひとつになる、というような事を言い、男性クライマーは、チャレンジ、競争、成功した時の名誉、みたいな事 を言っていたのが印象的です。もちろんそれだけではないけれど、限界の状況で、やっぱ発想とモチベーションはそれなんだなぁと。だけどその先に女性の愛を求めるのですね。
作品はすべて西洋的なものだったので、東洋のより調和を大切にするスピリチュアルなものがあると良かったなと思いました。
コンペティションの世界はともすると自分が消耗品になってしまいます。
メンタルはとても大事で、凄いうなり声を上げながらボルダリングするスペイン人クライマーには、「ヨガやって呼吸法を学んだら?」と観ている間ずっと思ってしまいました。
私はもっと伝えたい事があるなと。
アスリートの方々の魂は、ヨギのそれと似ていて美しい。
肉体への意識も高くて、精神的にも強い、けれども脆い。

環境を変えて教えれば伝わるかしら?もっと限界のコンディションでなら必要性を解ってもらえるかしら?
街の中からもっと自然の中に出て行けるようなリトリートとかキャンプが出来たらなと思います。




次の日はYoga Fes'2013で、パシフィコ横浜でした。
アジア最大級、今年で10回目のヨガの祭典。
国内外の有名先生のWS、無料のクラス、ヨガウエアー、ヨガグッズ、最新のヨガ情報等が一度に味わえるので、チケットがなくても十分楽しめるのです。
Hugger MuggerさんのブースでWSを2回。

初めて使いましたけど、このエッグタイプのブロックは用途も多岐に渡って便利で、とても使いやすかったです。背中のカーブにしっかり添うので、通常の四角いブロックだと痛みを感じる方にも良いですし、より腹部が自然にストレッチされて気持ちいいです。
また、この上でのアームバランスや片足立ちのアサナなどは、体幹を鍛え、バランスをとるその一点をすばやく見つける練習に最適です。立位のアサナの補助としても、そこに寄りかからず、足を使って支える練習にとても役立つので、初心者から上級者まで活躍しそうです。
江ノ島スタジオにも少し置こうかなと思っています。
個人的に欲しい方は直接私にお知らせ下さい。割引コードをお知らせ致します(Hugger Mugger全商品に使えます)
会場にいらして下さった方、ありがとうございました。
大きな会場で知っているお顔に会えると嬉しいものです。
そして3日間、関係者の方々本当にお疲れさまでした。
また来年も楽しみにしています。

そして最後の2日間は、鎌倉でのクラスを2つ終えてから、タオの権威、マンタック・チア老師(謝 明徳老師)のWSでした。初日はチネイザン(氣内臓)、二日目は、ユニバーサルヒーリングタオの基礎、陰陽五行の事、シックスヒーリングサウンズ(音で内臓に蓄積された感情を解放するメソッド)、インナースマイル、鉄布衫功てっぷざんこう)初めて受けた鉄布衫功はなんとプラニックヨガのメソッドほぼそのものでした。
昔の中国は戦争が頻繁で、自分自身を氣で強く守る事や、ちょっとした判断ミスで国が一夜にして滅ぼされることもあったので、常に緊張や怖れ、感情的なエネルギーの損失を防ぐために編み出された実践的なヒーリングと鍛錬の方法の数々。 
そして老師からの壮大な宇宙のお話。
地球の地軸が変わる事、太古から人がエネルギー的に影響を受け続けて来た北極星(Polaris)が、こと座のベガ(Vega)に移行しつつあること。
若く陽のエネルギーを持つ星 から、より陰のエネルギーを持つ星に変わって行くので、私達もより女性性に焦点を合わせ、変容していかなければ生き遅れてしまうこと、パルス(恒星の脈動)が地球に生命を与えたこと、など、秋分の日、陰陽のエネルギーバランスが移り変わって行く節目の日にこのお話を聴く事が出来て本当に良かった。
自分への誕生日プレゼントとして受けたので、しっかり受け取り日々実践して役立てたいです。
不思議な事に老師は私の考えている事が解るのか、講義の間も実技の間も、私が思った事にすぐに明確な答えを下さるのでした。ちょっと悩んでいたり、間違った方向に思いそうになったりしていた事を正し、にこにこと、氣の体験をさせてくれます。

少し前から腰と足首を痛めていたのに鞭打って働かせていた私の身体は疲れきってもう悲鳴をあげていたのに、快復してしまったのがすごい。

新たな気持ちでまた日々頑張っていきたいと思います。
期間中お会いしたたくさんの皆様方、本当にありがとうございました。
至らなくてうまく回らなかった部分も多くすみません。 
週末はSunset Lounge、台風一過で秋晴れのいい日になりそう!
Yoga Under The Sky は12:00からです。
お待ちしています。

2013年8月13日火曜日

「あきらめる」のホントの意味

「あきらめる(諦める)」という言葉、
大体は何かを断念するとか、終わりを覚悟する、という意味で使われています。
私もそう思っていました。
反対の言葉は「執着」かな。
あきらめきれない状態は執着を生み出します。
追いかけて追いかけて、それはとても苦しい。
だから「あきらめる」ということのすっきり感もなんとなくわかっていて、それは歯を食いしばって我慢するとか、苦しんで手放すとか、そういう感じではないのですよね。

「あきらめる」はもともと仏教用語だそうです。
「明きらむ」、要するに「明らかにする」という意味で、真理を観察して明らかに観るという事。
仏教での「諦」という字は「真理を悟る」という意味。「明きらむ」という事。
般若心経最後の一節、「羯諦羯諦 波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶(ぎゃーてーぎゃーてー はらぎゃーてー はらそうぎゃーてー ぼーでぃーそわかー」ではこんなにふんだんに「諦」の字が使われています。

「 明きらむ」は「真理を見極める」。
そこから「周囲の状況をあるがままに見極め、見極めようとしている自分自身が認識できる範囲を知り、能力を発揮できる範囲=限界を悟ること」
という意味で使われ、
それで「限界を悟り、断念する」となり、「思いを断念する」という意味で
「諦める」が使われるようになったのではないか
という説があるそうです。



「わからない 」「もっと知りたい」という興味が執着を生み、理解するという事があきらめる、なら、前者は恋みたいなもので、後者は愛に近いのかもしれません。


年齢を重ねるとあきらめることが増えますが、イコール断念したことが増える、ではないのではないでしょうか。
「わかっちゃったから、とりあえずいいや」、みたいな「あきらめ」
そう、これは大人な感じです。

「怒り来らば怒り、悲しみあらば悲しみ、そのめぐるものめぐるが如くめぐらして、息乱すこと無きは全生の人也」
とは野口整体の創始者、野口晴哉の弁。

 だから執着を生まないよう、「明らかにする」ということも大人のマナーですね。
「愛されたい」は「執着されたい」のではないですからね。

「あきらめる」という言葉の意味を最近より深く味わっているのです。
言霊を正しく使っていきたいです。OM

2013年7月24日水曜日

熟考には身体感覚を伴って。

日曜の選挙が終わり、(特にそのことに貢献したわけではありませんが)どっと頭の中に、普段漠然と想っている事や、断片的に知っている情報等が一気に押し寄せ、その処理に約一日かかりました。

 http://matome.naver.jp/odai/2137303390336449901
今回最も話題となった三宅洋平さん。
一応まとめを載せておきます。ヤマン。

彼の言っている事は、政治屋として◯◯を実行します、とかそういうことではなくて、民主主義を構成する一市民として、私達に「もっと政治に参加しようぜ」と耳元でガンガン鐘を鳴らしてくれ、はっと何か本当の事をしなきゃと考えさせてくれる類いのものです。
彼の言う意識の持ち方は、彼が18万票近く獲得し落選したという今現在の状況でも変わらず、一人一人が出来る事、やっていかなければいけない事、を教えてくれます。
政治は賭け事でないからね、投票した人が勝った負けた、それで自分は得をする損をする、ではないんですよね。

自分がこんなに政治の動向に興味を持つようになったのはやはり311から。
ただでさえシングルマザーで思春期の息子、要介護の母親を抱えたしがないフリーランスのアラフォー女ですから、「ちょっとまってよ」と思う事がたくさんあるわけです。

自分がまだ20前半の頃(私はまだ選挙に行った事がなかった)、
周りにいたミュージシャンのおじさん達はけっこう熱く政治経済の話をしていました。
世界情勢の事もね。なんで自分の日常と関係ない事にこんなに興味持てるんだろうと思っていましたが、大人になればなるほどそれらは密接に生活や日常に関わってくるのですね。それを聞きながら、アメリカン文化に憧れてやまない、70、80年代をそのまま体現して生きる仲良しのおじさん達に、「でもアメリカって世界のリーダーだって勝手に勘違いしてるよね」などと突っ込み、その頃から空気を読まない私独自の目線は持っていたんだろうなと苦笑します。

逆に安倍さんが何をしようとしているのかもじっくり考えました。
どういう気持ちで日本を見ているのかなということですけど。


浄妙寺のお茶室です。
抹茶は思考を冴えさせてくれます。


丸い窓から切り取られた自然を凝縮した風景。「和」
丸い窓は禅の世界では悟りを表しているそう、だからこれは悟りの中から見える風景。
私にはそれぞれ自立したうえで関わりあって生かしあって一緒に存在している草木や石、水、風が感じられます。

今回憲法第96条、9条 、どういう風に変えて行きたいのか、そのビジョンは?
何を理想とし、それは何に対してなのか。
当たり前だけど目線は全然違うんですよ、良い悪いでなく。
だから大事なんですよね、選挙。

ちょっとしたきっかけで、三浦半島横須賀側に位置する安房口神社という場所にいってきました。
ここはどこからか運び込まれた大きな石が祀られているところで、社殿はありません。
そういう形式の神社は相当古い物らしく、少なくとも神話の世界のヤマトタケルもここを訪れたという言われがあり、パワースポットであることには間違いなさそうです。
千葉の館山にある神社と対になって「阿吽」なのだそうです。
わりと大きな山の頂上付近にあたるのですが、周りは高級新興住宅地としてすっかり樹々が切り倒され、この土地の霊性みたいなものは無くなってしまっていました。

お金ってシステムは、それしか見えなくなると何かを作るようで壊すなと、安心のようで不安を作るなと、平和なようで対立を作るなと、そのお金は何所から来て何を表しているものなのか(何を凝縮させたものなのか、たとえば誰かの時間、何処かの資源、誰かの感謝、誰かの欲望、とか)がわかっていれば良いものなのだけど。


動物は何にももっていないで生きている。
人間と動物は違う、かもしれませんが「生きる」システム、DNA的には大差ないはずなんです。

わー、気持ちいい、楽しい、快適、元気、美味しい、これ大好き、みたいな感覚ってなんで抑圧されてしまうのかな、日本の社会では。


鎌倉の花火は森戸から観ました。
多岐に渡っていろいろ考えてちょっと疲れたけれど、じっとしているよりは動いていた方がバランスがいいんです。身体が動く、頭も動く、心も動く、それに伴って周りの人も動く、お金もエネルギーも動く、だけど自然と繋がった状態で。
私はシンプルに自分の氣が上がる事を選択し続けます。

2013年7月12日金曜日

健康力は排出力

「ヨガの先生は、病気の事に詳しくても仕方ない、それはお医者さんの仕事。ヨガの先生は健康に詳しい人でいないといけない」というのは師匠が言っていた事。

健康って何なのでしょう?
どういう事を言うのでしょう?

元気、ってすごく満たされていているイメージがあります。
「元気」とか「健康」のための薬やサプリメント、またはハーブとか、化粧品、健康器具、とにかく足りないものを補うためのものって世の中にあり過ぎる気がします。
◯◯が足りないから健康じゃない、元気じゃない、だからこれが必要、あれも必要というのは物を売りたい人が広めた考え方に他なりません。

女性ならわかると思うのですけど、生理の前、ホルモンの働きで身体が水分や栄養を溜め込もうとします。この時期不快感や倦怠感、PMSという症状にまとめらてしまうのですけど、調子が悪く感じる人が殆どだと思います。
逆に生理が始まると一気に排出力が高まり、スッキリして調子がよく感じます。

どんなに美味しい物を食べても、排出がよくないと気分は憂鬱です。
身体は重く、肌が荒れたり浮腫んだりします。

腸は食べ物を分解して必要な栄養素を身体に吸収しますが、そのとき余分な老廃物が排出されずにいると、そこからもまた吸収してしまいます。
アーユルヴェーダではアーマ(未消化物、毒素という意味)と言われますが、血液中に不要な物がたくさん吸収されて全身に運ばれてしまうのです。
病気の原因であるとされ、アーマを溜めない、アーマをいかに排出するか、というのが治療の基本的考えになっています。

毒素というのは最初お腹に溜まっています。
腎臓、肝臓など分解したり濾過する器官がありますが、機能が弱って来ると排出出来なくなってしまいます。
体力がある人というのは、排出力の強い人の事です。
お腹に力があって、呼吸を吐き出す、声が通る、お腹で熱を生産出来るので汗をかける、便通が良い、生理の周期が整っていて期間も短く終わる、安産で母乳の出が良い、悪い物を食べたとき吐き出せる、身体を冷やしてしまったら熱を出せる、など です。最後のふたつは病気っぽいですが、健康の証。
きちんと排出出来ないと、毒素が全身に回ってしまいます。
物理的に下方へ降りて行くので足に溜まりやすいです。

ヨガが健康に良いのは、姿勢が良くなったり筋力がアップしたり、自立神経の働きが整ったり ということも大きな要素ですが、主に排出力を高める、事に役立っているのだと思います。筋力も柔軟性も、横隔膜を使った深い呼吸、バンダもロックしてエネルギーを溜めるためのもの、であることは間違いないですが、結果排出する力が高まります。

体力がないと、排出出来ません。
元気がないと掃除をする気力も湧かないのと同じです。
ちょっと汚れて散らかっているけどまあいいや、が身体の中で 起きている状態。

すごく豪華な造りの場所でなくても、きちんと片付いていて清潔ですっきりしている空間は居心地良く感じられます。
私達の身体は、何か足りないものをを吸収するために健康であるべきなのではなく、きちんと排出するために、筋力にしても意志にしても健康であるべきなのだと思います。
また、感情も思考も溜めずに表現すべきだと思います。
元気な人って大抵言いたい事を、毒になる手前のフレッシュなうちに言っている(笑)
溜まるとたいした事でなくても毒になってしまうのですよね。

また、連日ニュースで報道されている、熱中症は、身体の中に熱が溜まってしまう症状です。
熱が上手く排出されないので、機能障害が起きてしまうのです。
からだの機能は冷えると落ちます。
だから、出来るだけ冷やすのではなく、排出力を高めるための事をした方が有効です。
暑い国の料理って皆辛いでしょう?
汗を出すための誘発剤みたいなものです。
エアコンで外から冷やす、冷たい物を摂り過ぎて中から冷やす、どちらも身体の排出力を抑えてしまい、本当は必要なのに汗を出せなくなってしまいます、で、熱や毒素が溜まる、だるくなったりイライラしてしまったり、の悪循環になってしまいます。

その出し方の良い方法や加減を知っている事、が健康に詳しいということのひとつかなと思います。 何事もバランスなので、それを知ることが出来るようになるのもヨガを練習する事の大きな意味かなと思っています。
私が毎日練習を続ける理由でもあります。
OM





2013年6月18日火曜日

父性と母性 成長或は変容を促す力

百田尚樹氏の「永遠の0」を読みました。
2009年発行だから、随分遅ればせながらですけれど、今このタイミングで読めて良かったなと思います。
日本の男性の美学とか、男女の差別、社会的な通念のようなものを理解する何かが私には少し欠けていて、普段それらを居心地悪いと感じてしまう事もしばしば。
だけど、どうしてなのか、いろいろ見えて来た気がしました。

ニュースでもいろいろ言われている過去の問題。
311があってから、現行のシステムは良くなっているのか悪くなっているのか、私には判断致しかねますが、一人一人の心の中に、「日本」という国を改めて考え直す、思い直すという事は少なからず起こったのではないかと思います。
この国の伝統、文化、良さ、何故この国はこうなのか、失いつつあるこのままでは忘れそうになってしまうような何かを、皆意識し出しているのを強く感じます。

 ヨガインストラクターになってから10年も越える私ですが、日本の今のヨガ界創世記〜発展期に、既に教えはじめていた私は、当時からインストラクターになりたい人達が周りにたくさんいて、TT(ティーチャーズトレーニング)を卒業して、ヨガを教えたい、教え始めてる、もしくはインストラクター歴○年といういう生徒さんがクラスにおいで下さることは少なくありません。
だけれど、正直日本のヨガの将来、ますますおかしくなるんじゃないかと懸念を拭い去れないような想いも持っています。
お茶を濁さず言わせて貰うと、 どういうわけか、みなさん外国人講師や男性には新しい知識を教わりたがるのに、自分の事、見られて指摘されるのは同じ日本人女性からは嫌う傾向にあるのですよね。男性はやっぱり女性が先生なのはやりずらいようだし、パートナーの方がよく思わないケースもよくありますよ。そこは何かちょっともやっとしますね。

ヨガを教えるという事は、自分を客観視出来て、心身の姿勢の整え方も知っててこその仕事です。
みんな同列の仲良し、みたいなの私は違うと思っています。
そこには観る側、観られる側があって、 生徒は見られる事で徐々に自分自身を自ら観る事が出来るようになり、さらにそれが的確で周りに対してもその人の成長や回復のためになるのであれば、観る側をやっていくのだと思うのです。


何か自分自身の悩みや身体の不調や生き方の模索などと向かい合って行くためにヨガを選んだ人は多いと思います。
変わりたい、変わらなきゃ、そういう想いで張りつめてTTを受ける感じ、もしくはあまりそういう面を表に出さず、「私はヨガ教えるつもりはないですけど、自分の勉強のために」な人も多いですよね。
受けているとき、いろんな気付きがあり、自分がどんどん変わっていく、先生に認められる、ヨガでは競争はない、ありのままの自分らしさを大切にする、みんな繋がっている 。。。云々 

本当に成長、変化していくためには、まずは母性的なエネルギーが必要です。
どこかで傷ついて、自己否定したり、自信をなくしたり、目標を見失ったり、いままでのやり方では上手くいかないとわかってきたとき、人は当然落ち込んだり、怒りや不安を感じます。人によってはそれを認められない場合も多いでしょう。
本当の変化を起こすには、先ず受容や育むエネルギーである母性的エネルギーを充分に満たし、自尊心や、正直に自己を表現して認められる自信、安心感を充分培ってから、父性的エネルギーと対峙する、ステップが必要です。
だけど、母性的エネルギーチャージの段階から先に進めないか、自尊心が充分育っていない段階でいきなり父性的エネルギーに対峙しようとする、自分自身に対してのSなところが多く見受けられ、却って身体や心を追い込んだり、強い指導をする教師に倒錯したりします。

 父性的エネルギーとは、現行システムや経済、社会的な事柄、自己実現のステップに欠かせない感情を客観視する思考的安定さ、または思い込み、外傷、トラウマ、自分が強く影響を受けた出来事、等変化の前に障害となって立ちはだかるもの。

自分を守ってくれていたり必要だったものですが、父性とは柔軟に変化していかなければ成長や変容の障害となり得るものなのです。
何故かというと、母性が受容し、育む性質を持つ物であるならば、父性は制限し限界を与え、時には壊していくような性質を持っているからです。
インドの三大神、ヴィシュヌ、ブラフマー、シヴァは、それぞれが三位一体となって入れ替わり宇宙を創造、維持、破壊→再生、のサイクルを動かしています。
だから理に叶っているのだと思います。
それに対して女神は、ウマがパールヴァティに生まれ変わり、その強い側面はドゥルガーと称され、さらに彼女が我を忘れる程怒ったとき、カーリーという恐ろしい側面が姿を現し、夫であるシヴァでさえも踏みつけます。
そんな風に、女性は自身がその時々で変化する存在です。

戦後日本から無くなってしまったのは、父性かなと思います。
誰も父性を正しく扱えなくなってしまった。
だから日本のヨガも何かが欠けている気がする。
優しいおおらかな母性、力強く、決まり事を設けコントロールする父性。
でも父性はずうっと変わらないままだと役に立たなくなってしまうのです。
守り、規律を与え成長させてくれていたものが、自分を縛る枷にもなります。
それを変えて超えて行くのが成長であり、変容です。
ヨガでやっていくところ。


私がこういう目線を持てるのは、シングルマザーであり、思春期の息子を持っているからだと思います。両方やらなければいけないし、異性の成長、変容して行く様子を日々ニュートラルに観察出来ているからだと思います。

子供が成長して行くとき、お母さんに守られて、育まれて、たとえどんな失敗をしても許し認められ、愛され、勇気づけられ、教えられ、自分を尊ぶ心と自信を培って徐々に社会と関わっていく時間が増えます。そこではうまくいかなかったり、困難な事があったりして凹んだとしても、またエネルギーをチャージして困難を乗り越えて行きます。
父親は、越えたくても越えられない存在、時には自分を否定されたり、制限を与えられたりします。尊敬する気持ちも芽生えますが、その父が作った制限を超えようとする事で男の子は男になっていきます。
女の子にも変化は必要ですが、結婚、妊娠出産などで自然に変わらずを得なかったり、育った環境とは違う価値観の家庭や組織に入る事で成長、変容して行きます。

今はその制限がない状態。
なんでもいいのよ、という母性的なエネルギーだけだと、子供は何所までが限界なのかを確かめようと、暴走します。わざと叱られるような事、悪いとわかっている事をして、自分が超えて行くべき目標を設定しようとします。
的確な制限を与えられる事によって、観てもらっている、守られている安心感が生じます。
叱られない、というのは成長過程においては漠然とし過ぎていて不安なのです。
今はそれがないまま、安心を求めて母性エネルギーにみんなが寄り集まろうとしているように思えます。必要とされて、女性はどんどん強く本能的になっていく。
楽だけど、間違った事は何ひとつないけど、なんとなくバランスがとれていない感じ。

本当に必要なのは的確な父性なのかもしれないなと、感じました。

私が育った家庭は私が思春期の頃にはもう父親がいませんでしたので、私は特に制限される父性エネルギーを知りませんし、簡単には従わない傾向にあります。
だからこそ、必要性がとてもよくわかります。
両者は誰しもが自分の中に持っているエネルギーです。
使う場面やタイミング、順番を間違えないようにすれば、自分や周りを成長させ、望んだ変化を与える事になっていきます。

2013年の今、父性、母性、男性、女性がそれぞれの役割をするのではなく、誰しもが持っている両方のエネルギーを、関わりあいの中で、観たり観られたり、自身の中で調和させていく時代なのかなと思います。
平和ですよね。守っていかなきゃ。

OMShanti

2013年6月13日木曜日

人を見る側として

今日は都内で、とある新設ヨガクラスのインストラクターのオーディションをさせて頂きました。
当たり前ですが、皆さんそれぞれ学んで来た事を披露してくれます。
自信がありそうだったりなさそうだったり、デモ中生徒役の方々とコミュニケーション出来ていたり、緊張のあまり一方的だったり、たくさん喋ったり、間を大事にしたり。
上手い下手ではなく、皆さんそれぞれに素晴らしいのです。
得意な事も違うし、ヨガ自体の捉え方も違っていて当たり前。

で、今日私がどんなところを見させて頂いていたかというと、「全体への配慮が出来るかどうか」でした。進行、次の方へ繋いで行く時の立ち居振る舞い、言葉 遣い、時間配分、表情や仕草、アジャストするときの声がけや歩き方など、テクニックそのものではなく、場を創り出すその方の想いのようなところ。

TTを受けてインストラクターとして一歩を踏み出したい、またどんどんキャリアを積んで行きたい、気持ちはとてもわかります。

結果はともあれ、お一人お一人に一言を添えてお知らせするのですが、自分の知っている事を伝える事より生徒さんの身体や仕草や表情や息遣いから発せられる 声になっていない言葉を聞いて、そこに何が必要かさっと見極めて差し出してあげられるようこれからも頑張って下さい、ということを書きました。

だけどそうじゃなくてもいいのだと思います。
これは私が自分に言っている事。
受け取る人に委ねられる、自分はそんな柔らかい距離感に助けられてきたのだと思っています。