2013年8月13日火曜日

「あきらめる」のホントの意味

「あきらめる(諦める)」という言葉、
大体は何かを断念するとか、終わりを覚悟する、という意味で使われています。
私もそう思っていました。
反対の言葉は「執着」かな。
あきらめきれない状態は執着を生み出します。
追いかけて追いかけて、それはとても苦しい。
だから「あきらめる」ということのすっきり感もなんとなくわかっていて、それは歯を食いしばって我慢するとか、苦しんで手放すとか、そういう感じではないのですよね。

「あきらめる」はもともと仏教用語だそうです。
「明きらむ」、要するに「明らかにする」という意味で、真理を観察して明らかに観るという事。
仏教での「諦」という字は「真理を悟る」という意味。「明きらむ」という事。
般若心経最後の一節、「羯諦羯諦 波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶(ぎゃーてーぎゃーてー はらぎゃーてー はらそうぎゃーてー ぼーでぃーそわかー」ではこんなにふんだんに「諦」の字が使われています。

「 明きらむ」は「真理を見極める」。
そこから「周囲の状況をあるがままに見極め、見極めようとしている自分自身が認識できる範囲を知り、能力を発揮できる範囲=限界を悟ること」
という意味で使われ、
それで「限界を悟り、断念する」となり、「思いを断念する」という意味で
「諦める」が使われるようになったのではないか
という説があるそうです。



「わからない 」「もっと知りたい」という興味が執着を生み、理解するという事があきらめる、なら、前者は恋みたいなもので、後者は愛に近いのかもしれません。


年齢を重ねるとあきらめることが増えますが、イコール断念したことが増える、ではないのではないでしょうか。
「わかっちゃったから、とりあえずいいや」、みたいな「あきらめ」
そう、これは大人な感じです。

「怒り来らば怒り、悲しみあらば悲しみ、そのめぐるものめぐるが如くめぐらして、息乱すこと無きは全生の人也」
とは野口整体の創始者、野口晴哉の弁。

 だから執着を生まないよう、「明らかにする」ということも大人のマナーですね。
「愛されたい」は「執着されたい」のではないですからね。

「あきらめる」という言葉の意味を最近より深く味わっているのです。
言霊を正しく使っていきたいです。OM

0 件のコメント:

コメントを投稿