2015年5月25日月曜日

自分のため



私が眉唾で、聞いた途端興味が半分くらいになってしまうことのひとつに、
「人のため」「◯◯のため」「誰かのため」「愛する人、家族のため」…
というのがあります。

まぁ、公私共にいろいろ失敗もしてきて、ただお仕事的にはディープにいろいろな人と関われるヨガ教師のひとつのものの見方だと思って、「人のため」を信じたい人は流して下さい。

私はね、「人のため」を貫いた人を未だ嘗て知りません。
どんなに聖人と崇められて、世のため人のために尽くした人でも、結局はそれが「自分のため」だから続けられているのですよね。

何かを「人のため」にやっているつもりの人は、危ういマインドステイタスだから、本当は「自分のため」なところに意識を合わせて欲しい。

というのも、「人のため」で、見返りを求めず出来る、強靭な心を人間が持つのは無理なんじゃないかなと思うのですよ。
それって一歩間違えると、狂信…盲信…になるのかもしれない。

「人のため」は、自分を疎かにしてもいい言い訳になり得ますしね。

時に自分の命を投げ打って、という事もありますが、それってその後に深刻な不幸が周りに残ってしまう。
悲しめない、責められない。
遺された人が、業(カルマ)を背負わないとならなくなってしまう。

「自分のため」なら、後々、
ああ、馬鹿だなと清々しく笑う事も出来るけど、「人のため」「何かのため」だと難しい。



自分がそれに気付いてからは、「人のため」癖がついていた自分に、いつも、「自分のため」に意識を変換出来ないなら止めれ、と問い直すようにしています。
欲とか、下心とか、期待とか、まるでなくて100%「人のため」と信じている人はちょっと信用出来ないなぁというのが、40代の今の私のリアルです。

逆に、自分のためなんです!!
と言い切れる人の潔さを信頼し、応援したいなと思う。
それは自分の子供に対しても、親に対してもそうですね。

よくある、
新月、満月に願いを立てる、みたいな事も「自分のため」からでないと叶わないのですよ。
人って先ず自分が幸せになれるように、命をお借りして生かされているのだと思っています。

その「自分のため」に、どれだけ多くの人や物事が含まれているかが、その人の大きさなのではないでしょうかね。



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