2014年1月28日火曜日

マウナ(沈黙の行)の1日


先日16歳になった息子の、合唱コンクール後の一コマ。
(先生もピースして下さってありがとうございます^^)

自分が高校生の頃は、こんな屈託なく学校生活を楽しめるような状況ではなかったので、私は息子を一人で育ててはいますが、彼が友達や先生を大切に思う気持ちをそのまま素直に感じながら青春をエンジョイしている姿を誇りに思っています。

週末は、ヨガのクラスをすべてお休みさせて頂き、2日間、気功と瞑想のWSに参加してきました。

気功をしている時は、頭の中でヨガのときに作る姿勢と混同しないように考えながらあれこれ試させて頂いている感じです。
その中で、まあ手前味噌ですが、プラニックヨガで間違いないという自信のようなものもふつふつと湧いて来ます。ですが、まあ、あまり勘違いのないようにしたいものです。

また、気功の奥深さも純粋に楽しんでいて、気が整うと、身体が調律された感じがしてとても心地良いのです。実際逆立ちのようなバランスを行うと(気功ではそんなことしませんが、私が休憩の合間等に勝手に)、ビシっと一点が定まっていて、でも何所にも何も力を使っていない状態です。

とまあ、とても良い感じに身体を調律して、翌日は丸一日朝10時から夜7時まで沈黙の行(Mouna -マウナमौन )の中の瞑想でした。
とは言え、ノンストップではなく、計9回、坐り方を変えたり、間に立禅(站椿功)、歩行瞑想、マインドフルネスイーティング、観音気功、シャバーサナなどを混ぜながらでしたが、とにかく言葉を発さない、文字にも触れない、これは言われなかったけれど、皆さん表情も顔に出さず、アイコンタクトのような事も一切しない、周りとコミュニケーションをしない、が徹底していました。
ヴィパーサーナは経験ありますし、マウナも別段苦しい事ではなく却って快適なくらいに思っていたので、楽しむつもりでいたのですが、これが予想を大きく覆してかなりつらいものでした。

30名近くの参加者が一室に集まって無言で自分のことに集中している、状況は、ヨガ教師なのでまったく日常の範疇と言えるのですが、最初、全員で円を成して坐り、皆が一つの方向(円の中心)に向いていた時や、向かい合わせで坐ったりする時にはまったく感じなかった圧迫感を、全員が円を背にして壁に向かって瞑想をするフォーメーションになった時に、耐えられない程感じてしまいました。
目を閉じているし、それほど周りを気にする状況でもないので、自分の事に集中していればよいのですが、周りに人がいる事も皆が別の方向を向いている状況も知りながら坐っています。

段々圧迫感が増してきて、薄目を開けたら、真っ白い壁しか目に入って来なくて(当たり前)却って焦りました。
家では慣れ親しんだヨガマットの上で、 近くに植物をたくさん置いてある中で、そして完全に一人の状況で坐るので、何とも言えないざわざわ感が発生。

肘を広げたら隣の人にすぐ触れるほど近くに人の気配を感じるのに、その人には触れてはいけないし、その人の気にも触れてはいけない状況です。
なんとなく、満員電車の中で、自分がドアに張り付いて駅に着くまで黙って耐えているような感覚に襲われてしまいました。
とりあえずじゃあ満員電車の中と同じようにしてやり過ごそうと、姿勢を屈めて呼吸を浅くしていたら、先生が真後ろに立っていて、仙骨から頭頂までエネルギーを伸ばされました。お陰でちょっと助かりました(さすが先生)。

歩行瞑想の時も、皆静かに、誰とも目を合わさず、自分が何を思っている、考えているを表に出さず、誰とも触れず、本当に只静かに不規則に歩き回っている様子が、都会の群衆の中に紛れてしまった感に襲われて、だんだん言いようのない孤独感に押しつぶされそうになりました。

これは正しくない認識ですが、私が感じたのは、狭い空間で、自分が既に関わっているつもりの人達がいるのに、無視し合っている冷たくて不自然な状況でした。
That's exactly Tokyo、みたいにも思ってしまった。

実際瞑想終了後のフィードバックでは、そんなことを感じていたのは私だけで、後の方々はそれぞれ至福感を感じていたり、身体の痛みと向き合っていたり、いろいろだったようでした。

自分が普段鎌倉など海の近くでわりと人と親密に、広々とした空間を感じながら生きさせてもらっているからかな、とも最初は考えていたのですが、じっくり考えてみると、これは自分の育った環境のトラウマのようなものでした。

私はたぶんその時に、自分でもおかしいと感じながら、いろいろな感情を我慢して、どっちの味方なの、と責められるのが嫌で、父にも母にも特に触れないようにしていた子供時代を過ごして、心から安心して笑う事も甘える事も信頼して相談する事もない家族との付き合いだったように思います。

一方ではすごく活発で、いつも何かに好奇心を持っていて、集中すると周りの状況なんてどうでもよくなってしまうような、あっけらかんとした子供でした。
中学生でやっと両親が離婚したとき、悲しい気持ちもありましたが、解放感の方が強かったのを覚えています。
妹はよく体調を崩していましたが、私は一切病気もせず勉強もできて、しっかりものと扱われて、またそれに応えてもいたので、強い子だったなと改めて自分でも思います。
新聞配達して、家計を助けたりして。

なので、今、それに似た状況はすぐに耐えられなくなってしまいます。
人のよそよそしさ、感情を別のものにすり替えて外に見せる感じ、正直なコミュニケーションのない不自然さ、見て見ないふり、自分一人が頑張らないといけないみたいな状況(それも認識違いなんですけど)、金銭的な不透明さ、不安定さ、そういったもの達です。
知らない人からは変に思われる行動も多々あるでしょうね。

とてもつらく感じて、途中少し泣きましたが(笑)この瞑想をやって良かった。
身体が丈夫だから頑張れるっていうことに今まで頼って来たけれど、歳を重ねていったらそうもいかなくなるでしょうから。

一緒に過ごした皆さんは私の家族のよそよそしさはなく、それぞれいろいろなことを抱えながら誠実に生きようとしている人達。
そうそう、これが今の私の状況。
あたたかい人達に囲まれて、自由に生きたいように生きている。
そんな風に過去の認識を新たにすることが瞑想の意義です。


まずは、子供時代の自分によく頑張ったね、よく生き延びて来たねと充分に褒めて愛情を注いであげたい。
ゆっくり、でも確実に自分で自分をもっと幸せにしてあげるのです。


そしてやっぱりヨガをしていないと、長時間坐ることってなかなか出来ないのだと痛感致しました。やってて良かった、ヨガ。毎日思っているけど、また強く感じました。
身体の強さ、しなやかさはこれからもさらに大切にしていきたいですね。
Namaste









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