2015年1月3日土曜日

2015年に共通するメッセージ






あけましておめでとうございます。
2015年はどんな一年になりそうですか?
湘南では元旦から雪が降り、いつもと違う趣でした。
なんとなくこれからますます予測不能な、予測なんて無意味な時空間になっていくんだなと思いました。

冬至が明けてから、頻繁に見聞きするフレーズは、
「いいとか悪いとかない」「善悪の二極を越えて」「正しい、間違っているとかは存在しない」などの、今までの価値基準をさ〜っと平らに慣らすような考え方。
ヨガの哲学も陰陽思想も、本当はずっとこの一点からぶれずに伝わって来たのだけれど、いいとか悪いとかの価値基準って、教えられたり、守らないと批判されたり、心が傷ついたりして、なかなかまっすぐ表に出て来れなかったのですよね。

いいとか悪いとかを強く持っている人程、昔は素晴らしく見えたんだと思うの。
ミクロからマクロまで、いいとか悪いとかを越えた広い視点を持っている人の考えや言葉って、伝わりにくく、逆に何か一点に集中したような考え方やメッセージ(実はエゴだったりします)というのは、わっと人の心を掻き立てる。(私はそれに敏感で、すぐに怖いなとか、反発する反応が出てしまう。でも上手く説明出来なくて周りを困らせてしまったり)

例えば、すごく目の細かい上質な繊維って触っていても触っている感じがしないけれど、粗いものは触ってすぐに感じる事が出来るというような。

私達はずっとずっと善い悪いの基準に苦しんできたのではないかな。
もし善いも悪いもなければ、自分に対して、自分の気持ちや状況を恥ずかしいと思うこともきっとなくなるのではないでしょうか。
「いいのかな?悪いのかな?」って答えを出す事に多大なエネルギーを使って、結局行動にまで辿り着かないということ、こうすることがいいだろうと思って、本当に感じていることから自分を分離させたところにエネルギーを使って消耗する。
それで怒ったり、悲しんだり......

大晦日に母に会って、たくさん話をしました。
私の中でいい悪いってジャッジする人が居なくなっているから、とても正直になれたと思う。母も私がジャッジしていないのを感じて、初めて聞くようなことをたくさん出して来た。話していて、やっぱりいい悪いの価値基準や思い込み、コミュニケーションの分断から、私が育った家庭の、愛や幸せの種がたくさんたくさん 摘み取られてみんな辛い想いをしたなってことをつくづく思いました。

昔は、今よりもっともっと良い悪いの価値基準がタイトだったわけで、それを子供の私が変だなって思って見ていて、そして今の私を息子やもっと新しい世代の子供たちは、まだまだ縛られてるなって目で見ているんだと思う。
子供はただ地球に生まれて来て、いろんなことを経験したいだけ。
失敗もいい悪いもなく、その経験によって導かれて成長していくのだから、私達はものごとの善し悪しを押し付けるのではなく、身体と心の上手な扱い方を必要な時に教えてあげられればいいだけなんだなって。
子供になにかを教えようとするより、ただ話をたくさん聞いてあげようと思います。 これからどんどん意識集合体の価値基準は変わってくるのだから、その方が絶対面白い。

私は人前で喋るのが仕事だから、つい自分が率先して何か喋らないといけないって思ってしまったり。無理して喋っているからそれに対しての意見を受け入れられなかったりしてたなって反省もしました。

善悪の価値基準、二極の分離から解放されれば、不思議と自分自分って守る必要もなくなるんだなっていうのが年が明けてからの私の感じている事。
それでもまだうっかり出てしまう癖は残っているから、旧暦のお正月くらいまでにいろいろ見直して行きたいな。

二極を繋ぐキーポイント、それにみんなが具体的に気付いていくような一年なのかもしれません。ますます自由に自由自在に、好きな場所で好きな人と好きな事が出来ますように。
2015年、今年もどうぞ宜しくお願い致します。


0 件のコメント:

コメントを投稿