2012年4月25日水曜日

樹の言葉

キルタンの練習の前に、白金台にある、国立科学博物館付属自然教育園という名の都会の森へ森林浴をしに行ってみました。
私の頭の中では、のんびり森の息吹を深呼吸しながら、iphoneでキルタンを聴き、いい感じになる、というものでしたが、この森、思っていたより全然広くて一周するのに小走り(笑)
はっとするようなきれいな場所や、気になる樹木がいくつかあったので、また訪れて(音連れて)みようと思います。

いろんな方に読んで頂いているこのブログにあまりリリカルなことは書きたくないのですが、2〜3年前に伊勢神宮を詣でてから、樹の氣がわかるというか、樹齢が100年200年以上経った大きな個体に限るのですけど、意識のバイブレーションのようなものを感じて、それをなんとなく翻訳できるようになりました。

それは冬至の頃の伊勢神宮の早朝の内宮での出来事だったのですけど(伊勢神宮の内宮の鳥居は、冬至の太陽がそこから昇って見えるように計算されて建立されています)、まだ真っ暗で誰もいない境内を進んで行くに連れ徐々に明るくなり、神職の方々もちらほら出勤されて、しばしお仕事前の神聖な時間を過ごすという時間帯で、皆さん思い思いに大木に抱きついているのです。もちろん誰もが無言です。
宮司さんのような方から、「あなたもどうぞやってみなさい」との目の合図を受けて、私も同じ事をしてみました。樹齢400~500年の樹。
最初はなんとなく、でもだんだん感受性が開いて行くのです。
まるで老齢の偉い高貴な人に、子供が無邪気に質問を投げかけるように、私もぽーんと自分をまるごと差し出します。
すると、その樹から、
「わたしたちはあななたたちのことをみています」とはっきり何かが返って来たのです。

「え」と思い、「なにこれホント?」と思いながら、
「どういう意味なのですか」と訊ねると、
「わたしたち植物は、生命意識の集合体で、個体としての境目が動物であるあなたたちよりもっと曖昧です。同じ種だけでなく、森全体、地域全体、地球全体のネットワークの中で生きています。だから、アフリカのバオバブの樹が今何を感じているかも同時に感じる事が出来ます。
そういう集合意識は本来皆共有していたのです。でも、人間はどんどん切り離してしまった。人間だけがこの意識に参加していない。やりかたも忘れてしまった。
だから、わたしたちはあなたたち人間の事をずっと見ているのです。良くなるのか、もっと悪くなるのかなど未来の予測は私達には出来ません。すべてが自然の働きなのです。
だから、あななたちのことを見ています」というような返事でした。

びっくりしましたが、他の樹でもやってみました。
その樹はもう少し若くて(それでも樹齢200~300年だそう)もっと楽観的で、「赤い」というイメージが伝わって来ました。意味はわからないです。
小さい樹はみんなそうで、何か言っているのですが意識にはなっていないというか、きっともっと自然の中で暮らして感性を磨けばわかるような繊細なものなのだと思います。

近くの樹に抱きついていた袴姿の職員の方が私を見てうなづいていました。
「観光客が来る前の早朝のこの時間は特別なんですよ 。私は毎日こうやって氣を頂いています」と仰っていました。

都会の中のこの森の樹が言っていた事は、「スペースが足りない」ということと、「地面が熱い」ということでした。
「スペースが足りない」というのは、私には十分広く感じる敷地でも、いきなりぱつっと切れてしまって隣はマンションとか高速道路とかなので、森はその時々で広がったり縮小したり、また樹のメンバーも入れ替わる(針葉樹から落葉樹へと生態系も変化していく)のですが、森が育つ広さが十分でないということらしいです。
「地面が熱い」というのは、もしかしたら地震などとも関係あるかもしれません。いつもと違って、というニュアンスが含まれていました。また、地下の水が足りないということでもありました。
周りはすべてアスファルト、地下鉄もすぐ近くに走っています。
雨水がしみこんで、地下で豊かに流れるはずのものも分断されたり下水に流れて土に還らないのでしょう。
やっぱり都会の森は悩みが深いなと思いました。
明治神宮などの樹や、代々木公園などの樹は、もっと役割があって、それを勤めていますという感じなのですが、ここの樹は、森の自然な姿を人々に楽しんで貰うという役割があるのも関わらず、不本意ながら力を発揮出来ない、という、そんな 溜め息のようなものを感じました。

今年は海もいいけど森に頻繁に足を運べるといいなと思いました。
新緑のエナジー、気持ちよかったですよ。
OM Jagatanbe Jai Jai Ma


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