2013年1月11日金曜日

人が「愚れる」時

「グれる」って一体なんの意味なのかとわかっていなかったのですが、「愚れる」だったのですね。愚かになるということ、わざと愚かに振る舞うということ、ですね。

 私には思春期真っ盛りの息子がいますが、彼はあまり愚れない、というか愚れ方がそれほど派手でなくわかりにくい、という最近の子の特徴そのままのような気がします。
本人も愚れたくないみたいですね。

人が愚れてしまうのは、よかれと思って、もしくは思いやりや愛情を持って(本当はやりたくないけれど)頑張ったり気を遣ったのに、それがまったく理解されなかった、無駄になってしまった、時に限られています。
「善」とか「愛」を持って賢い提案なり行動なりをしたのにも関わらず 通じなかったショックって思いのほか大きいのですね。
それは、人の本質が「愛」とか「善」であるということを現わしているのだと思います。
自分の本質を理解して貰えなかったというショックなのかもしれませんね。

(結果を期待せず、本当にいい意味での「どうでもいい」「どうなってもいい、ただ私がそうありたいから善や愛を示す」という 純粋な聖人レベルになれれば傷つきもせず、愚れることもないのでしょう)

その反動で(賢さでだめならと)愚れる。
要するに、愚れているうちはまだ関わっていたいのです。
関わり方を模索中といったところでしょうか。
そしてもちろん賢さの中で関係を築ければベストなのですが。
だから「愚」そのものを受け入れてはだめです。
「愚」はコミュニケーションのサインであって、愚れる方もそれをわかって本当に程度の低い愚かな事はしてはいけません。 「愚」は時に「甘え」とか「過剰な自尊心」とか「皮肉やジョーク」という形でも表現されるのでご注意を(笑)

先日今年のアカデミー賞にも何部門かノミネートされている レミゼラブル(http://www.lesmiserables-movie.jp/)を観て来ましたが、その時も同じ事を思いました。
作品そのもののテーマが「この世に絶対的な悪はない」「人の本質は善である」という一点を貫いていますからね。
原題のLes Miserablesは、だからこそそれが時代や人のカルマに翻弄されて上手く反映されず「悲しい」ということを強調し、それでも本質を曇らせず貫いて生に繋げていくのだというところが普遍的で、世界中で共感を呼ぶのでしょうね。

愚れそうなときには選択を変えて、是非ヨガを(笑)
私もそうして日々愚かなところに自分を落とし込まないようにしています。
ナマステ

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