先日「その原因は?」でエゴについて書きました。
今日はそのエゴがどうしてどこから来るのかを書きたいと思います。
世の中は、「与える事」と「受け取る事」で成り立っています。
それはどちらがどうということはなく、吸ったら吐くのと同じように、自然な事です。
小さな子供のうちは受け取る事ばかりでしょう。
受け取って受け取って育っていきます。
与える方はそれが喜びです。
まっすぐ受け取ってもらえた時には、心から幸せを感じるもの。
だから、与える事をさせてくれて、受け取ってくれてありがとうなのです。
ですから、例えば子供が好き嫌いをして、作ったご飯を嫌がって食べないとき、お母さんはとてもがっかりします。
そして子供が受け取りやすいように様々に与え方を工夫します。
子供の方も、自分が受け取っているんだ、与えられているんだという事を自覚しはじめます。そうすると、受け取った時はありがとう、受け取れなかった時はごめんなさいと言う、物事が潤滑に流れるルールも知っていきます。
そして、物事をやりとりしているだけではなく、愛情ややさしさ、思いやりを循環させているのだという事を理解します。そして、物事はそういうものに乗せないと上手く運ばないし回って行かないんだという事も次第に理解します。
そうして社会全体で物事を育んで世界が成り立っているのだということも理解します。
ただ、ここでこの単純なところが複雑になってしまった場合、このルールを理解しないまま、欲しい、くれない、欲しい、奪う、欲しい、でも受け取らない、欲しい、いや、やっぱり欲しくない、みたいな捩じれたやりとりになってしまいます。
エゴはここから来るのでしょう。
愛されていないという思い。
受け取るばかりだった子供が大きくなって、 アルバイト等で少しずつ社会と関わる時、やはり最初は自分が賃金を「受け取る」という発想が大きいと思います。
最初から最高のサービスを提供しようなんて考えられる高校生や大学生はなかなかいないと思いますが、徐々に、「与える」ということがわかりはじめて来ると、その「ありがとう」がわかって来ます。相手が受け取れないような与え方をしてしまった時には「ごめんなさい」です。
また、受け取るばかりだった時には見えて来なかったいろんな与え方の形がわかるようになります。そしてますます受け取る事が上手になって行きます。
それが大人になるということです。
そのシンプルで潤滑な流れの中にエゴが入って来てしまうと、与える事は損、出来るだけたくさん受け取ろう、もしくは与えられているものに気付けず、怒ってばかり、欲求不満ばかり、自分ばかりが与えている、吸い取られている、奪われていると感じ、消耗してしまいます。与えている側は、自分のエネルギーを無駄にされてしまったように思い、
そうなると物事は潤滑に回れず、その命が衰えて行きます。
ただし人それぞれ与える量と受け取る量は違っていいと思うのです。
だから多くを与えられる人に対しては、 自分が形として与えられない分応援したり、その人がその能力を最大に発揮出来るよう、敬意を持って接することはとても大事です。
そうすることは、その人がしている「与える」という行いを理解しているのだと伝えていることになります。それはまた自分の「与える」能力を磨き、社会の中でより大きな役割を果たせるのだと周りに理解させる事にも繋がります。
誰でも与える能力を持っています。
エゴがふたをしていることも多いでしょう。
だから、相手に少し力を送ってそのふたを開けるのです。(褒めるとか、好きな事を話題にするとか、状況を気遣うとか)そうすれば与える、受け取るの流れが潤滑になります。
エゴを優先させれば、流れが止まります。
感謝も発生せず命も社会も滅びていくのだろうなと思います。
誰でもエゴを持っています。
だから、それを理解し、流れが発生するように物事を、行動を、発言を、思考を選択していくのです。
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